【第38回】流浪のサラリーマン時代 営業所編⑦「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」
神戸から小倉へ転勤
百万ドルの夜景とはよく言ったもので六甲山から眺める阪神工業地帯の夜景は溜息が出るほど見事なものだった。
五年も神戸に居たが、転勤が決まり、神戸を離れる前になって一度は見ておきたいと思い、家族で出掛けた。
昭和四十三年九月、やっと私に営業部から声が掛かった。セールスマンではなく、福岡の小倉にあった日本コロムビア北九州レコード営業所の次長職だった。
当時コロムビアは九州に二つの営業所を構えていた。鹿児島本線と長崎本線の沿線エリアは博多にあった福岡営業所が担当していた。
北九州営業所は筑豊地域と五市合併で誕生したばかりの百万都市、北九州市と日豊本線沿線の大分、宮崎と鹿児島の大隈半島の一部を四人のセールスマンが担当していた。
身重の嫁と四歳になった長男の手を引いて小倉駅に降りた。
今回の辞令もセールスマンではなかったが、営業の第一線で働ける喜びで胸がいっぱいだった。
駅には北九州営業所、商品課長の篠原さんと営業補助要員の平島さんが出迎えてくれた。
小倉で暮らした二年間、この二人にはいろいろ教えを受け、助けられた。
小倉の街の中心から南に少し離れた丘の上の若園町に和室ふた間の戸建住宅が社宅として与えられた。
高い家賃に苦しみ、下宿人を同居させていた豊中の二階建て長屋に比べ、小倉での暮らしは夢のように思えた。
翌日から仕事が始まった。北九州営業所は当時全国に十六ケ所あった営業所の中で売上げ規模が一番小さな営業所だったが、得意とする演歌歌謡曲、子供向け商品に加え、CBS、EMIなど洋楽レーベルを沢山扱っていたためシェアは高く業界から一目置かれていた。
その小さな営業所の所長、前田さんは
「ルールブックは私だ」
と日頃、事ある毎に言っていた。ワンマンで強烈な個性の持ち主だった。
個性的と言えば、コロムビア北九州電機営業所の所長、宮川譲二さんも負けてはいなかった。声が大きく馬力があり、相手の気持ちなど一向に構わず押しまくって来る。まるで唸りをあげるブルドーザーみたいな人だった。
運が良かったのか悪かったのか、その後私が転勤する先々で、このブルドーザーさんといつも一緒になった。お互いに八十歳代になったが、腐れ縁は今も続き、お付き合いさせていただいている。
営業第一線の仕事は販売店への挨拶廻りだった。
全国最小の出先とは言え、小倉魚町の松田楽器、大分のエトウ南海堂、宮崎の西村楽器など、全国に名の通った大型店があった。
松田楽器の経理に白川さんと云う女性の方が居たが、後年息子さんがCBSソニーに就職が決まり大変喜んでいた。
その息子さんとお会いしたのは、私がコロムビアの制作部長で彼がソニーの宣伝部長の時だった。
当時、美空ひばりがゴルフに興味を持ち始め、郷ひろみさんと数回プレーしたことがあった。
その日も贅沢なゴルフ場と噂されていた成田ハイツリーで郷さんとのプレーを楽しむことになった。
郷さんのお供で白川さん、ひばりさんのお供で私が出席し、そこで初めてお目にかかった。思わぬところで、小倉時代に繋がりのある人と出会い、懐かしく思ったものだ。
日豊本線は宮崎の日南海岸と別府温泉を抱えていたため、海外旅行が夢だった時代、新婚旅行のカップルで賑わう路線だった。
この路線で最初に訪店したのが大分のエトウ南海堂だった。江藤社長は元警察官だと聞いていて、私は怖い人だと想像していたが、会ってみると笑顔の絶えない親しみやすい人だった。
型通りの挨拶が終わると江藤社長はいきなり
「君、ゴルフやるの?」
と、私に聞いた。
「出来ません」
と答えると
「これからの営業のリーダーはゴルフぐらいはやった方がいい」
江藤社長はそう言うと、私とセールスマンを店に待たせたまま、外に出て行った。
しばらくして肩にゴルフバッグを担いで、江藤さんは帰って来た。
「私からの次長就任祝いだ!」
と言って、私にミズノのハーフセットを手渡した。
初めて会った人にこんな高価なものを貰っていいのか思案している私を
江藤さんは店の屋上に連れて行った。
屋上にはマットが敷かれていて発泡スチロールを丸く切ったボールが五個ほどそこに転がっていた。
江藤さんは買って来たばかりのクラブをケースから抜き出し、早速私にゴルフの指導を始めた。
私は指導された通り、そこにあるゴルフボールの代用品を打ち始めた。
すると今度は
「これからコースに行こう」
そう江藤さんは言い出し、背広にネクタイのままの私を、別府やまなみハイウェー沿いのゴルフ場へと連れ出した。
私は貸しシューズを履き、ワイシャツを腕まくりして、この突然のゴルフデビューに挑んだ。
---つづく
著者略歴
境弘邦
1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。