【第45回】流浪のサラリーマン時代 営業所編⑭「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」
細川たかし『心のこり』のエピソード
音楽の専門店を目指していたマリウスの主力店は横浜西口ダイヤモンド地下街にあった。
横浜高島屋、相鉄ジョイナスに通じるメイン通路にあって、大勢の人でいつも賑わっていた。
木曽専務はこの店舗に居ることが多かった。毎日のように顔を出す私にいつしか心を開いてくれた。
木曽さんは凝り性だった。私が出会った当時は商品在庫の回転率に拘っていて独自の管理カードを発案し、よく自慢していた。
又、レコードの音に対する拘りは音楽専門店の経営者として立派な心掛けではあったが、のめり込み方は尋常ではなかった。
第一印象があまり良くなかった私だったが、物事に対し夢中になる木曽さんを次第に尊敬するようになっていた。
野毛のご自宅にも頻繁に伺うようになった。
木曽さんは私にレコードをよく聴くことを勧めた。
「レコード会社の社員なら最高のオーディオ装置で聴かなければダメだ!」
木曽さんがメモしてくれたオーディオセットの価格を見て腰が抜けた。
「境さん、このセットなら恥ずかしくないよ」
スピーカーはJBL、アンプはマッキントッシュ、プレイヤーはデンオンと細かく品番と価格が書かれていた。
一番安い価格のものでも六十万円程度は必要だとわかった。木曽さんの自宅リビングにはそれをはるかに越える何百万もしそうなオーディオがあり、彼はそれで毎日レコードを聴いていた。
私も渋々自社のデンオンのセットをローンで買ってレコードを聴くようになった。
木曽さんはコロムビアのものだけでなく、他社のサンプルも持って来ては聴くように勧めた。
荒井由美、井上陽水、小椋佳など好んで聴いたが、中でも山崎ハコの『飛びます』というアルバムは相当聴き込んだ。
レコードを聴いてはお互いの感想を語っているうちに私は段々木曽さんの虜になって行った。
木曽さんとはよくゴルフに行った。横浜のコロムビア若羽会のメンバー井上さん、木曽さん、栃沢さんはいずれ劣らずゴルフが上手く、シングル級の腕前だった。何か理由をみつけてはよく四人でゴルフに出掛けた。
スイングは大きく華麗に振るようにと指導する井上さんに対し、脇を締めてコンパクトに振り切らなきゃダメだと注意する木曽さん。親切はありがたかったが、私は迷った。
一緒にラウンドしていると、ふたりの視線を意識して私は大きく振ったり、小さく振ったりメチャクチャなゴルフをやっていた。
若羽会メンバーとのゴルフが高じて、九州若羽会との交流戦を鹿児島の指宿カントリークラブで行ったことがあった。
横浜チームの圧勝で終わったその夜、全員で宿泊した指宿いわさきホテルで私は生れて初めての体験をすることになった。
この年、細川たかしが『心のこり』でデビューしていた。コロムビアでは全社一丸の大キャンペーン中で営業も懸命に各販売店に売り込んでいた。
勿論、若羽会の推薦曲に取り上げられていた。
昼間のゴルフの自慢話や反省など宴の盛り上がりを見計らって私は細川たかしの『心のこり』の売り込みを始めた。
ここに集まったオーナー達は推薦曲になっていることは解っていても歌そのものは知らない。
そのうちの一人が
「どんな歌だっけ?」
と聞くので私はアカペラでその場に立って歌った。
〽私バカよね
おバカさんよね
このフレーズで全員思い出し、拡売を約束してくれた。
二次会でナイトクラブに行くことになった。クラブと言っても、このホテルのそれは大きなドーム型の屋根の別棟で、南国らしく各テーブルは熱帯樹で仕切られ、ホテルの客は浴衣ではなく、アロハシャツに短パンだった。
ステージではそれに相応しい曲が生バンドで演奏され、ハワイに居る雰囲気が演出されていた。
酔いも手伝って、お国自慢に花が咲いていた頃、クラブのボーイが突然私のところにやって来た。
「コロムビアの境さんですか?」
「ハイ!そうですが…」
私が返事をすると
「バンドが『心のこり』の伴奏準備、出来ましたのでステージにどうぞ…」
そう言ってボーイは私を誘導しようとした。
「ちょっと待ってください。私はコロムビアの者ですが歌手ではありません。お断りします」
「おかしいですね。そちらから是非とお願いされバンドもやっと引き受けたんですが…」
どうやら悪企みに乗せられたらしい。
良い歌だから売れ売れとしつこく頼んだので、それなら歌ってみろ!ということなのか…。
私は腹を括った。その頃はキーを聴かれても解らず
「普通でお願いします」
と答えるのがやっとだった。
スポットライトが二本当たり、必死で歌った。
この私のささやかな思いが届いたのか? 『心のこり』は売れた。細川たかしの礎になった。
---つづく
著者略歴
境弘邦
1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。