【第46回】流浪のサラリーマン時代 営業所編⑮「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.5.15

東京営業所で受けた試練

うちの会社には家を買うと決まって転勤になるというジンクスがある。

おまえも用心しろよ!と仕事仲間から注意されたが、用心しろと言われても自分では何も出来ない。これがサラリーマンの宿命と悟り、私はあまり気にしていなかったがこのジンクスが見事に当たった。

入社以来これまで十ヶ所以上の職場を転々として来たので常にその覚悟はあった。

名古屋か?大阪か?位に考えていたら東京営業所の所長に任命された。

当時の職場は横浜時代のドヤ街のような所と違い、花の原宿にあった。

現在テイチク本社がある京セラビルの道を挟んだ真向かいに、当時東洋ビルと云うビルがあった。

その二階にコロムビアの東京営業所と関東営業所が入っていた。他にこの二つの営業所を賄う商品倉庫もあり、総勢七十人近い大所帯だった。

当時も原宿は若い人達の人気スポットで、コロムビアの若い社員の憧れの職場でもあった。

私は今回の異動で一瞬華やいだ気分になったが、買ったばかりの横浜瀬谷の家からの通勤は大変だった。

私が着任した昭和五十一年頃の原宿はまだ表通りに町屋が残っていた。

コロムビアが入っていた東洋ビルの隣に材木屋さんがあったし、反対隣には人のよい夫婦が営む焼き鳥屋さんがあった。ここを実によく利用した。

当時赤坂の坂の頂上にあった本社よりアクセスが良い原宿に様々な人達が毎日やって来た。

本社の各部署の人達や販売店、プロダクション、タレント、作家など、お蔭で急速に人脈が広がって行ったが気苦労も多かった。

だが、本社から持ち込まれる情報の中で、人事の噂話は興味があり面白かった。

「お前な!来春には営業部長と云う噂があるぞ!」

とか

「俺の後をやる気はないか?」

と直接宣伝部長が言ってきたりした。

予算規模が最大のこの営業所には予算遂行の仕事の他に、全国に跨る卸店、チェーン店の本社・本部との折衝が重要な役目としてあった。

その頃、私が悩み苦しみ多くの時間を割いた事案が二つあった。

一つは既に東京のメーカー会、十日会で議論されていたサービス券と金券に対する取扱い問題だった。

現在のポイント制の原型とも取れるサービス券は当時、破竹の勢いで全国にチェーン店化を進めていた新星堂、一方の金券は星光堂の卸取引先の大型家電量販店がそれぞれレコードの販促に利用していた。

この問題は常にレコード商業組合とメーカー間の火種になっていて組合から猛抗議が続いていた。

値引きとも取れるこの行為は再販売価格維持制度の解釈に微妙に引っかかっていた。

相手が新星堂、星光堂の巨大ディーラーだけに誰も首に鈴を付ける勇気は無く解決の糸口さえ見出せないでいた。

もう一つの事案はこのサービス券の問題以上に難題で、手数料の引き下げを狙った卸店との取引条件の改定だった。

全国最大の卸店、星光堂本社をエリアに抱えていた私がその任に当たることになった。

星光堂、新星堂両社とも相手は創業社長で手強くライオンに立ち向かう猫のような様相になった。

星光堂の飯原初代社長はレコードがSP盤からEP・LP盤に移行する過程で廃れ行くSP盤の販売代行をメーカーから委託され苦労の末、現在の卸業態の基礎を創り上げた人と聞いていた。

それだけに恒久的な手数料の引き下げは卸業の生命に関わる問題として頑として聞き入れなかった。

私はあらゆる手法で理解を求めたが、相手は百戦錬磨の強者、のらりくらりとかわされ全く成果はなかった。

もう私には打つ手がなかったし、私には荷が重かった。それでも本社からは遣り遂げろと強い要請は続いた。

一方、新星堂では宮崎社長になかなか会わせてもらえなかったが、遂にその日が来た。宮崎社長と交渉することになった。

先方は当初からコロムビア本社との交渉事案だと考えていて、私との話に熱が入らなかった。

宮崎社長は

「これ以上、君と話す必要はない。時間の無駄だ」

と言った。

今まで我慢を重ね、粘り強く交渉して来た私もついにキレた。

「宮崎社長!販売業界の横綱なら横綱らしい相撲を取っていただけませんか?」

この一言に宮崎社長は激怒した。

「君は必要ない。これからは本社と話す」

私はその日同行していた次長の手前、引き下がれなかった。

「現場の責任者を信頼して頂けない相手に私は商品を売る訳にはいきません」

商品の出荷ストップである。

「君が出来ると思うなら、やればいい!」

売り言葉に買い言葉になった。

もう元には戻れない。宮崎社長は当時の商売の力関係からそれはやれないと思っていたが、私は翌日から新星堂各店からの注文を受け付けなかった。私は抜いた刀で交渉が硬直していた星光堂にも同じことを伝えた。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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