【第47回】流浪のサラリーマン時代 本社編①「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.5.16

東京営業所から無念の転勤

私と新星堂宮崎社長との交渉決裂の話はメーカー会に筒抜けになった。

コロムビアが新星堂、星光堂に自社商品を卸さない。前代未聞のこの話はさらに尾鰭が付いて業界に広まった。

いつ誰が言ったかは分らないがメーカー会、十日会メンバーはタカ派とハト派に棲み分けされていた。私はタカ派と見られていた。

タカ派には他にCBSソニーの木村さん(後のレコード協会専務理事)と東芝EMIの小島さん(後の洋楽部長)が居たが、この二人が私の決断に鋭く反応した。

彼らにも忸怩たる思いがあったのか、新星堂、星光堂両社に対し、契約条項(再販価格維持条項)を盾に強力に交渉を始めた。

コロムビア一社ならと高を括っていた両社は主力メーカー二社の参入に慌てた。

問題解決のための話し合いが両社とメーカー本社との間で始まった。やっと動き出した。

タカ派と言われた我々三人はこの件の情報交換のため頻繁に会っていたが、いつも業界の噂に翻弄され言い争いになっていた。

一度新宿花園神社裏の小さな公園で木村さんと小島さんが大声で喧嘩を始め、お巡りさんが駆け付けたこともあった。

それほどまで熱く戦っていたこの問題も結果本社の腰砕けで現状維持の決着になった。大山鳴動して鼠一匹も出ずに終わった。

〝あの三人がいると商売がやりにくい〟と両社に言われたのか?三人は時を同じく異動した。

木村さんはソニーファミリークラブの役員に、小島さんは東芝EMIの洋楽部長に栄転したが、私は行き場所が無く、本社営業部付きの居候になった。

私は任期半ばの一年八ヶ月で花の原宿を去ることになった。情けなかったし、無念だった。

そして半年後、文芸販売課長にやっと付くことが出来た。

 

文芸販売課長時代に金田たつえの『花街の母』と関わった。

私が大阪に居た頃、薄々知っていた程度の金田たつえ夫婦と直接仕事することになった。

金田たつえの夫で事務所社長の梶原さんはこの『花街の母』に命を賭けていたが、当時のコロムビアでは彼の情熱にキチッと向き合い、受け止める人は居なくて、彼はいつもぼやいていた。

私が販売課長になって係るようになったときは既に発売から五年が経過していた。全国の販売店から注文が全く無い日もあり、作品生命も風前の灯だった。販売実績のほとんどが全国キャンペーンの手売りの数字だった。

地元北海道から見知らぬ九州の果てまで夫婦二人三脚のキャンペーン暮らしが続いていた。

旅先からよく手紙を貰った。まるで営業日報のように詳しくその日の様子が書かれていた。

〝今、深夜の三時です。これから風呂に入り寝ます。今日の夜キャンはあまり成果が上がらず、二十枚程度でした。明日は五十枚売りたい〟

ドブ板キャンペーンと言われていた夜の酒場で酔っ払い客相手の手売りは特に辛い様子が言葉の節々に伺い知ることが出来た。

私の記憶では当時母親の手をやっと離れたばかりの小さい子供が居たようだったが、あの子はどうしていたのか…。多分たつえさんのお母さん(名作『花街の母』のモデルに間違いないと思われる人)に預けての行商の旅だったのだろう。

夫婦二人の絆の強さもさることながら、この二人の志の強さには頭が下がった。

昭和五十三年七月三日消印の速達の一節を原文のまま紹介したい。

 

―日本人の歌、演歌、我がコロンビアの伝統ある演歌の灯を微力ながら支えて来ていると笑われるかも知れませんが自負して居ります。どうかコロンビア、又日本の演歌の再興とレコード会社としての本来の姿に一日も早く立ち直って下さる様お願い申し上げます―

 

金田たつえ夫婦はこの志があればこそ辛い辛い夜キャンに五年近くも耐え、乗り越えてこれたと私は確信した。私はこの手紙を受け取ったときから私自身に出来ることは…レコード会社の本来の姿とは…それは売ることだと結論づけた。

タレントだけが手売りで売るのではなく、レコード会社の最大の収益であるレコードを売ることが、今の我々に課せられた使命だと自分に言い聞かせた。

良い作品、すなわち売れると思われる作品には三年も五年も期限など無い。今からでも充分間に合う。

私は早速行動を開始した。売るために店頭の在庫をどう整備するか?タレント自身が仕入れ、持ち歩き手売りする商品が五年も経って全国のレコード店に在庫されているとはとても思われず、ここから手をつけようと思った。

幸にも以前私が川崎工場で働いていた頃の仕事仲間が製造部門の要職にいた。

「オイ!頼みがある。金田たつえの『花街の母』を三万枚、大至急プレスしてくれ!」

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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