【第50回】流浪のサラリーマン時代 本社編④「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.5.21

四十六歳 ディレクター一年生

いつもそうだが、ひばりさんが席を立ったらすぐ近くの別室に待機している範ちゃん(長年ひばりさんの側で身の回りのお世話をしている関口範子さん)に連絡するルールがあった。

私は彼女に〝ひばりさんトイレ〟の合図を送った。ところが、ひばりさんはトイレには行かず、廊下で店の仲居さんと何やら立ち話をした後、何事も無かった顔で部屋に戻り再び我々の話の輪の中に入って来た。

暫くして先程の仲居さんが薬局の小さな紙袋を持って部屋に入って来た。

薬局の袋!ひばりさんの体調が悪いのか!一瞬ドキッとしたが、それを受け取ったひばりさんはニコニコ微笑みながら船村先生に

「煙草は体に悪いわよ」

と言ってその紙袋を先生の前に差し出した。

「いや!どうもどうも」

先生も笑顔で返したが、開いた袋の中には薬ではなく、なんと禁煙パイポが入っていた。

当時〝私はコレ(小指)で会社を辞めました…。私はコレ(禁煙パイポ)で煙草を止めました!〟と云う流行語にもなったテレビCМが大量に流れていた。

ひばりさんもテレビを見てパイポの存在を知っていたものと思われる。

パイポを手にした船村先生は再び

「いやいや!これはどうもどうも!」

と言って苦笑を装っていたが、目は笑っていなかった。

一方のひばりさんは相変わらずニコニコしていて全く動じていない。先生の心を傷つけず、嫌な煙草を止めてもらうのにパイポを使うあたりにひばり流の心憎い大人の配慮があった。だが、その後の先生は苦虫を噛み潰したような顔になり、パイポを咥えて無口になった。

いろいろと気を揉んだ食事会も今後のスケジュールを調整してやっと解散した。

その時、これから始まる船村先生のパイポの逆襲を私は予想もしていなかった。

石本先生の詞はすぐ届けられた。『冬のくちびる』のタイトルが付いていた。早速、船村先生の東京での常宿、九段下のグランドパレスホテルに先生を訪ね詞を手渡した。

先生はその場で詞を目で追っていたが

「ウン!十日後にここに来てくれ!」

と言って立ち去った。

あとは曲の上りを待つだけの仕事である。日頃、ディレクター連中から制作は大変な仕事だ。もっと評価を高くしろ!と要求されていたが、自分で初めて体験してみて、みんなが言っているほど大変でもなく、逆にチョロイ仕事だとその時は思っていた。

私は先生との約束の日に作品を受け取りにホテルを訪ねた。

グランドパレスホテルの最上階のバーラウンジ、奥のコーナーが先生の仕事場みたいになっていた。

丁度この時期、先生を主人公にしたテレビの番組が企画されていて、連日この仕事場でテレビマンとの打合せが続いていた。

約束のその日も数人のテレビマンに囲まれ、酒を片手に栃木訛りで熱く語っていた。私にはどう見ても仕事の打合せには見えなかったが、仕方なく、近くの席で待つことにした。先生も私が居るのが多少気になるのか

「君も一緒にどうか」

と酒盛に誘ってくれたが断って待つことにした。

打合せに名を借りた酒盛はその後も続き、深夜になっても終わらず、私は諦めて一日目は六本木のねぐらに帰った。

次の日も次の日もこのパターンの酒盛は続いた。当時先生はカメラに凝っていて、テレビのカメラマンを相手に話し込んでいることが多かった。

私は先生に言われた通り近くの席に座って待ち続けた。果たして作品は仕上がっているのか?いつ受け取れるのか?不安になってきた。

夜の〝船村詣で〟も慣れてきた頃、ついにひばりさんから催促の電話が入った。待ち続けるのもこれまでか!

私は次の日から作戦を変え、ホテルに部屋をキープして酒盛の輪の中に入ることにした。そしてチャンスを見つけては先生に詰め寄った。

しつこく催促する私に先生は酒に酔った目を向け

「君は部長だろ!部長らしくデン!と構えていればいいんだ!」

と、意味不明のことを繰り返す。全く糠に釘である。

そんな先生の言動は、私には単に子供が意地悪をしているようにしか見えなかった。意地悪…。あっ!そうか!ひょっとしてあの時のパイポの仕返しか?いよいよ逆襲の始まりか?

私は気持ちを引き締めた。こんなことを繰り返していても一歩も前に進まない。ひばりさんのイライラしている顔が目に浮かび、私も腹を決めた。

お行儀よく接するのもこれまで。

「先生!巨匠は約束を守らなくても良いのですか!」

と、詰め寄った。

先生は恐ろしいほど不機嫌になったが

「明日来い!」

と一言言うと黙って顔も合せなかった。

翌日、約束の時間にホテルのラウンジへ行くと既に先生は居た。

私の顔を見るなり

「ハイ!これ」

と言って私に茶封筒を手渡した。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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