「営業から制作へ」  流浪のサラリーマン時代 本社編⑦【第53回】

2019.5.24

営業から制作へ

船村先生との思い出話から時計の針を制作部に異動した当時に戻したい。

昭和五十三年八月の異動で、また営業から外れ、四十一歳で新天地に向かうことになった。

「また飛ばされた」

と思った。なぜ私が制作部へ?会社の人事とはこんなにも脈略の無いものなのか?

制作の仕事に興味は多少あったが、私には何ひとつとして専門的な知識は無く人脈も無かった。

しかも管理職ではなく、よりによって好きではなかった演歌のプロデューサー職への辞令だった。

私は入社して以来、一貫して営業職への希望を出し続けて来て、セールスマンにこそなれなかったが、やっと営業部長を目前にしての配転だけに悔やまれた。とても残念だった。

今回の異動もこれまで何回となく味わって来た降格人事だった。今回は何が理由かよくわからなかったが、私自身心当たりがなかった訳ではない。“雉も鳴かずば撃たれまい”の例えを地で行ったような出来事が半年ほど前にあるにはあった。

レコード部門の重要会議のひとつに新譜編成会議が月例で開催されていた。

月々の新譜の発売を決定する会議だけに、担当役員は勿論、社長始め幹部が顔を揃えることが多かった。俗に言う御前会議である。私は販売課長の立場で出席していた。

制作担当者から企画の趣旨説明があり、作品の試聴の後、宣伝部のプロモート計画の発表がある。そして最後に私が担当する営業部から販売目標数の提示を行い議論していた。

他社の様子はわからないが、コロムビアの場合、特に販売目標数の中の初回出荷数(イニシャルと言っていた)を巡り、営業は、制作や宣伝といつも激しく対立する構図が出来ていた。

その日の会議も荒れた。第一回ホリプロタレントスカウトキャラバンのグランプリ、榊原郁恵のシングル第二弾の作品『バス通学』が火種になった。

その年、コロムビアとホリプロが総力を上げて売り出したタレントだけに注目を集めていた。

議論が白熱したのは初回出荷見込み数についてだった。まず蔵田制作本部長が口火を切った。

「イニシャルが低過ぎはしないか?もっと上積みしてくれ!」

「何かこの数字にご不満ですか!作品を試聴した上での適正な見込み数だと思いますが…」

と、営業部長が答えると

「なに?適正?営業に作品の正しい評価が出来るのか?もう一度聴いてくれ!」

「何回聴いても一緒です」

いつもはこの辺りが潮時で幕引きになるが、この日はここから罵声の応酬が始まった。

「営業は本当に売る気があるのか!」

そこに根本宣伝本部長が参戦して来た。

「うちの会社は営業が弱腰だから、なかなか新人が育たない。この販売見込数では恥ずかしくて先方に話しできないよ」

私はこのやり取りを聞いていて、ついに日頃考えていることを口にした。

「先方とはホリプロさんのことですか?見せ掛けの数字に意味はないと思います。出荷数の上積みは私にはプロダクション対策、タレント対策にしか思えません。私を一度ホリプロに連れて行って話をさせて下さい」

「何を!ポスター一枚店に貼れない営業にタレント行政に口出す資格はない。黙って売ってろ!」

「もうこれ以上、我々制作、宣伝の足を引っ張るな!」

「営業も皆さんと同じ方向です。足など引っ張ってません。一度本音で新人育成について議論しませんか!」

「まだそんな夢みたいなこと言ってるのか!もういい!出て行け!」

こうなるともうとても東証一部上場会社の重要会議とは思えない様相になる。私はついに会議室から追い出されてしまった。

私は子供の頃は気が弱く、いつも母に

「正しいと思うことをハッキリ言える男になれ」

と言われてはいたが、今日の相手は日頃何かにつけ目をかけて頂いていた制作、宣伝の両本部長だけに後悔した。

そしてこの出来事が今回の社内異動の理由ではないかと私は思うようになった。

「そんなにホリプロと交渉したいのならやってみろ!」

と言わんばかりに、当時ホリプロに所属していた石川さゆりの制作担当部署、演歌制作グループに放り込まれたと思った。

これまでも口が禍して何回も失敗して懲りているはずなのにこの年齢になってまたやってしまった。

今回の部署では、今までのように身体を使って人の倍働けば何とかなるとは思えず、途方に暮れた。

無一文で買った家のローンも大半残っていたし、子供たちもこれからの人生方向を決める大切な時期にあった。

私には会社を辞める選択肢はなかった。もう一度出直してみよう。頑張ってみようと思った。

この選択が私の未来への舵を大きく切ることになった。

こうして私は生涯最も激動の時代へと入って行った。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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