「盟友 中村一好との出会い」  流浪のサラリーマン時代 本社編⑧【第54回】

2019.5.27

盟友  中村一好との出会い

今度の異動先は正式には日本コロムビア株式会社レコード事業部制作本部第一企画グループという偉そうな名前の部署だった。要するに演歌制作グループのことだ。

制作本部の中でも特にここには古参と言われるディレクターが集まっていた。

ディレクターが六人とデスクの女性一人の他に管理、編集など事務方を入れ総勢十二人のグループだった。前任の東京営業所の七十人に比べると一人ひとりの行動が手に取るようにわかり楽だと思ったが、これが誤算だった。

入社以来経験してきた商品管理や営業部門と全く違い、ここが同じ会社かと疑いたくなるほど雰囲気の違う部署だった。

着任早々からここは私の居る場所ではないと気づき始めたがもう手遅れだ。黙っていれば営業部長の椅子も見えていたのに…。馬鹿だな…。猛反省した。

専門知識の無い私がこの部署で何をやれば良いのか…。

だが幸いにも、たまたまその時の直属の部長が私の神戸時代の仕事仲間だった保田氏で、彼の助けがあれば何とかやって行けると考えていた。

でもそれはちょっと甘かった。神戸の頃は彼のことを私は“やっさん”と呼んでいたので、部長の彼にも同じように“やっさん”と呼んでいたら、彼の部下から社内では保田部長と呼ぶように注意され、“やっさん”の助けも当てにできないことが判った。

赤坂の本社ビル三階のフロアの隅に演歌制作グループの席はあったが、

ディレクター達はあまりこの席を利用せず、主に地下一階にあったレッスンスタジオを溜り場にしていた。

窓もなく薄暗いこの部屋でコーヒーを飲みながらスポーツ紙や写真週刊誌を読んでいたり、社員食堂が近くにあったのでそこで買ったパンを食べたり、中には朝から競馬の予想に熱中していて呼びかけても返事さえしない人もいた。私には全く別会社に思え戸惑った。

丁度その頃、テレビ朝日で”海峡物語“というドラマが毎週放送されていた。

〝演歌の竜〟と呼ばれていた演歌のディレクター高円寺竜三が主人公で、彼はいつもサングラスをかけ、ハンチング帽を阿弥陀に被り、首からストップウォッチをぶら下げ、お尻のポケットに競馬新聞を挟み込んでいた。

〝演歌の竜〟は会社の組織には染まらず、自由奔放に振る舞い、歌を追い続けるヒットメーカーで、ドラマではその職人気質が格好良く描かれていた。

挿入歌『旅の終りに』はこのドラマの原作者五木寛之さんの詞で、我が演歌グループの冠二郎が歌っていたので私も毎回欠かさず見ていた。

当時私はドラマとは言え、こんな世界がレコード会社の中にあるのかと好奇の目で見ていたが、それに近い現実が自分の目の前に現れたと思った。

突然、営業から転がり込んで来た四十路男に古参のディレクター達は驚き戸惑っているのか…。

彼らに何を語りかけても私は無視された。ミーティングの時もスポーツ紙から目を離そうとせず、無視された。

この状態は暫く続き、私は手の打ちようも無く、唯々堪えた。

この演歌制作グループのメンバーの中に、長髪で口髭を生やし、濃いめのサングラスをかけた青年がいた。唯一私より確実に若いと思われるその男は、私の話を黙って俯いて聞いていた。

私はこのグループに着任以来、誰からも必要とされず孤立していた時だけに無表情ではあったが、この若いディレクターに賭けてみようと密かに思った。

彼はコロムビアマークの付いたバックルのベルトをいつも締めていた。それは愛社精神の表われとも取れた。

経歴を見て驚いた。東大を卒業し、演歌の制作を希望してコロムビアに入社。当時の看板ディレクターの東元氏(後のテイチク社長)の元で修業を重ねて来たと記録されていた。

又、コロムビアを選んだ動機が都はるみが好きだからと聞き、私は益々彼に強い興味を持った。

彼こそが私のその後の人生に大きな影響を与えてくれた中村一好氏だった。

私の方から彼に積極的に接近していった。

私は主に営業で経験した商品が売れる時の喜びを彼に語った。

彼に制作の仕事はその喜びの川上にあることを意識してほしかった。即ち、作品はお客が求める、お客の為の企画であるべきことを強調した。

つまり歌は営業が売るものではなく、制作が売るものだと言い続けた。

彼に営業感覚を身に付けてほしかった。反対に私は彼から歌作りのイロハを勉強することに決めた。

彼との会話は社内に居る時だけでは物足りず、次第に私は彼を追いかけるようになっていった。誰と会って、何を話しているのか知りたかった。それも勉強だと思った。その頃から夜の新宿が仕事場になった。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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