「中村一好の追っかけ」  流浪のサラリーマン時代 本社編⑨【第55回】

2019.5.28

中村一好の追っかけ

中村一好は、私が毎夜のように追っかけ回すことを最初は嫌っていた。

自分のペースが狂って来るとか…私にもプライベートがあるとか…が表面上の理由だったが、本音は

「あなたには制作の仕事は無理だ。あまりにも歌を知らなさすぎる」

と、言いたいのだと察しはついた。

私はそれでもめげずに、会社から仮払金を預り、打合せと称する飲み代を支払いながら一好のあとをついて歩いた。

半年ほどそんな追っかけが続いて、徐々に中村一好の正体が私には見えて来た。

彼は常に誰かと…何かと…戦っていないと元気になれない性格だった。

彼は子供の頃に近所で神童と噂される存在で、勉強は勿論、遊びにかけても負け知らずだったらしい。

東大時代は時の政策に反対し学生運動の先頭に立ち、戦っていたと聞いた。

そして六十年安保闘争では、再三ニュース映像になった東大安田講堂屋上に立て籠もり、警察車から放水を浴びていたことも知った。

彼は山口県出身で正に幕末長州のイデオロギーの血を引く筋金入りの武闘派に思えた。

そんな彼の生き様と演歌がどこで繋がっているのかわからなかったが、彼は演歌の生き字引と言われるほど、歌をよく知っていた。

カラオケ時代に入り、彼とよく酒場で歌ったが、カタログから彼が歌えない歌を探すのに苦労した。

それくらいヒット曲とその時代背景をよく知っていて、ディレクターの仕事に最も必要な日本の歌謡史の知識に彼は誰よりも精通していた。歌の勉強途中の私にとっては願ってもない歌謡史の先生が毎夜側にいた。

私はそんな彼の能力を借りて、長い習慣に胡坐をかいて来たコロムビア演歌の岩盤に風穴を開けてみたかった。

私達は毎夜のように新宿ゴールデン街の安酒場のカウンターで肩を並べ語り明かした。

コロムビアの場合、タレントと制作担当ディレクターの縦割り制度が長く続き、その制度に仕事がガードされ、何人たりともそこに入っていけない特権システムが出来上っていた。

特に演歌部門には美空ひばりさんはじめ、ビッグタレントが大勢いて、他の部門に比べ、この特権意識とも取れる考えが根強かった。

彼等は担当するタレントとの繋がりを優先し、私が売上げ目標への挑戦をいかに叫んでみても無視されるのは、この制度にあると思った。

果たしてこのシステムの中でヒットを生み出すための競争心が湧いて来るだろうか…。

私のやるべき仕事の第一歩はここから始めようと思った。

ディレクター同士が競い合う競作を取り入れる計画を早速一好に話してみた。彼の目が輝いた。水を得た魚のように私の提案に意欲を見せた。私は嬉しかった。一好の理解を得たことで百万の味方を得て、自信を持った。もう恐がることはない。

早速ディレクター全員を集め、この担当制の改革案を持ちかけたが、簡単に却下。無視された。私は今までとは違い、ここで踏ん張った。

「私の案を理解できない人はここから去って下さい。もし、異動先に希望があるなら取敢えず聞きます」

私は勇気を持って言い切った。一好を見るといつもと全く変わらず無表情で俯いていた。

私は一ヶ月程かけて計画を個々に説得したが、

「やれるものならやってみな!」

という態度に変化は見られなかった。

私は次々にディレクターの異動を始めた。川崎工場や営業所に転出させた。早速タレントからクレームが来たが

「現状より必ず良くします」

と約束したら収まった。

古参と言われるディレクターの転出を終えた結果、残ったのは中村一好とひばり担当の森氏だけになった。

仕事は待ってはくれない。私も知識が無いとか、経験が無いなど言ってる余裕はもうない。私もスタジオワークに挑戦することになった。

今でも鮮明に覚えているが、初めてのスタジオの仕事は冠二郎の『旅の終りに』をテレビ主題歌用に録り直すことだった。

テレビ朝日関係者、電通の担当者、作家の五木寛之さんなどこの日スタジオはゲストが多かった。

私は歌のブースで準備中の冠二郎に近寄り、正直に

「大変申し訳ないですが、スタジオの仕事は今日が初めてなのでどうして良いかわからない。そちらから指示を出してどんどん進めてくれないか…」

彼は私の怖気づいた顔を見て了解してくれた。

「それでは一度歌わせてください」

収録が始まった。歌ブースの冠とサブルームのミキサーとのやり取りが数回あって、

「大丈夫だと思いますがいかがですか?」

冠から確認があり、私は初めて

「良いと思います」

と、トークバックした。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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