「歌仲間の溜り場 歌舞伎町〝萌木〟」  流浪のサラリーマン時代 本社編⑪【第57回】

2019.5.30

歌仲間の溜り場 歌舞伎町〝萌木〟

「新宿新田裏の信号を斜めにラブホテル街に入って下さい」

私は都内どこでタクシーを拾っても運転手さんに同じことを言っていた。

何十回いや、何百回言っただろうか?これが新宿歌舞伎町へ行く私のルートだった。

今では新田裏という信号表示は無くなり、新宿六丁目の表示に変っている。

私はラブホテル街を抜け、T字路につき当たった付近でいつも車を降りていた。

当時近くに白川郷と云う合掌造りの郷土料理店があって、その並びに歌仲間の溜り場〝萌木〟はあった。

道路からちょっと入ったところに入口があり、ドアを開けるとすぐ左にアップライトのピアノが置かれ、右側がカウンターになっていた。テーブル席は十人でいっぱいになった。

ママは元JALのスチュワーデスで相当の美人。旦那は当時現役パイロットで海外へのフライトが多く、そのため彼女は毎日店に顔を出していた。

ピアノで歌の伴奏を担当するのが、私達が征ちゃんと呼んでいた歴とした作曲家の鈴木征一さんで、実に客乗せがうまかった。

だが私達歌仲間が毎夜のようにこの店に通う目的は別にあった。

歌手志望で若くて可愛いマドンナがいた。マドンナはプロ志向だけあって歌がメチャ上手く、色気たっぷりに私達酔っ払いのリクエストに笑顔で応じてくれる。その上、流し目やウィンクのサービスまでくれる。

マドンナは歌をよく知っていたが、私達のリクエストは主に艶歌に集中していた。中でも五月みどりの『おひまなら来てね』は毎夜のようにリクエストがあった。

バブルの時代とは言え、割箸にお金を挟んで歌舞伎町最優秀歌唱賞を出したりしていた。

酔いが回って夜も更けて来ると、下ネタ替え歌が始まるが、秀逸は作詞家の吉岡治が歌う童謡の『朧月夜』。これは最高に面白い。元歌の終りのフレーズを

〽拭くほど出なくてごめんなさい

という替え歌にし、そこを常連客全員で謝るポーズで大合唱する。

昭和の時代、名作の数々を世に送り出した歌仲間達の乱痴気騒ぎ風景である。

下ネタが出たところでもう一つ!

この店のカウンターには様々な珍品がよく置いてあったがこんなものもあった。

〝A君がこの度めでたく結婚することになりました。結婚に先立ち包茎手術を望んでおりますが、費用捻出に困っております。善意ある諸兄のご協力をお願いします〟

と書かれた張り紙と段ボール箱で作った〝包茎手術募金箱〟がカウンターの上に置いてあった。

我々仲間は勿論一般のお客も面白がって、千円程度の募金をしていた。暫くすると

〝お蔭さまで包茎手術は無事終わり新婚生活を楽しく送っております。皆さまの善意に深く感謝します。ありがとうございました〟

という張り紙と御礼の粗品が積まれていた。

気さくな三十坪ほどのこの店で夜な夜な酒を呑み演歌を語っていた。

ヒット作や失敗作の分析や作品の勝った負けたなどは日常的に行われていたが、なかには新曲の譜面を持込みピアノ伴奏で作家自らレコーディング前の作品を発表する場面もあり、聴いたそれぞれが歯に衣を着せぬ論評をしていた。

演歌勉強中の私にとってはここは正に学習塾であった。

常連には吉岡治、たかたかし、吉田旺の作詞家と徳久広司、岡千秋、岸本健介の作曲家達がいたが、メインは私と中村一好と都はるみだった。

日替わりで様々な歌作りの人達が集まっていた。星野哲郎、市川昭介などもちょこちょこ顔を出していた。

他のメーカーでは東元氏(後のテイチク社長)率いるビクター勢が酔って乱入して来ることもあった。テイチクの千賀氏は常連に近かった。

この〝萌木〟は昭和五十五年『大阪しぐれ』が作詞大賞を獲るまでは私の隠れ家として大切な癒しの店だったが、作詞大賞受賞祝勝会を貸切で開いたことで広く業界に知られることになった。

私の酒の歴史は浅く、九州の営業時代に始まり、この頃には少し強くなってはいたが、それでも仲間の中では一番弱かった。

長丁場の酒盛に付き合う秘策として当時歌舞伎町でしか買えない〝ネオタンセイ〟と云う怪しげなドリンクを飲んでいた。手作りのラベルが瓶に貼ってあって、一本七百円だったが、これが私にはよく効いた。

成分なのか暗示にかかるのか、これを飲むとその後、酒が美味しくなり長丁場を乗り切れた。

この店の常連たちは解散前のひと時をジャンケン大会で楽しんだ。翌日腕が痛くなるくらい一生懸命戦った。獲得賞金で夫婦で海外旅行に行った強者もいた。

お開きになった後、私と一好は近くの和そばの店〝竹むら〟か利尻ラーメンで腹拵えをして、ゴールデン街か、深夜二時にオープンする新宿二丁目の近ちゃん(近藤)に繰り出すことが多かった。近ちゃんでは夜明けまで演歌を聴いていた。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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