「新宿二丁目は演歌修行の街」  流浪のサラリーマン時代 本社編⑫【第58回】

2019.5.31

新宿二丁目は演歌修行の街

近ちゃんの店は通称“二丁目”と言われる街の入口にあった。古い小さなビルの二階にあった。

〝近藤〟と店名の入ったグリーンの小さな突きだし看板を目当てに外階段を上がると迷うことなく店に着いた。

基本はL字型のカウンターの店だったが四人掛けのテーブル席が窓側にポツンとひとつ淋しげにあった。

十坪ほどの狭い店内の壁は身丈から上の部分が全て土鈴で埋め尽くされていて、その数は優に二百個はあったと思う。

よく見ると一つとして同じものは無い。近ちゃんはこの土鈴についてあまり語らなかった。一体誰が何の目的でこんなに沢山集めたのか不思議だった。

不思議なものがもう一つあった。カウンターの端にこの店には不釣り合いな大きな立派な花が日替わりで生けられていた。季節の高価な花が訪れる客の度肝を抜いていた。下種の勘繰りでこの花代だけでその日の売上げは吹っ飛ぶのではないかと心配する程のものだった。

私がそれにも増して驚いたのはキッチンに置かれた大きな食器棚で、そこには食器に替って剥き出しにされたレコードがきれいに整理され積まれていた。

業界で云うドーナツ盤がジャケットを剥がされ裸の姿で山積みにされていた。ひと山百枚として計算すると二千枚近くあったと思う。

昭和五十四年の秋頃、私は中村一好に連れられて初めてこの店“近藤”を訪ねた。店に入る前に一好からこんな注意を受けた。

「カウンターの花には絶対触れないこと」

近ちゃんが自分で毎日生けている最も大切なもので、今まで何人か触った人がいたが、即出入り禁止になっていたと言う。

「それとこれは不思議に思うかもしれないが店内では口笛を吹かないこと」

口笛は悪魔を呼び込むと信じて、近ちゃんはすごく嫌がっていた。

紹介が遅れたがこの店の主、近藤定男さんは新宿二丁目界隈のオカマのボスだった。

五十代だと見ていたが体格が良く、顔は四角顔で厳めしく男っぽい人だった。

その彼がキッチンに立って細々とその日に出す料理を作っていた。

近ちゃんは気に入った客しか店に入れない。嫌な客が来ると店内はガラガラでも

「今日は満席!又お願いします!」

と断る。

「何言ってんの!ガラガラじゃないか!」

客が文句を言うと

「余計なお世話だね。今夜は予約でいっぱいなの!」

と追い返した。

私はどうやら近ちゃんに気に入られたようで夜な夜なカウンターを挟み向かい合って座り、酒を飲み演歌を聴いていた。

機嫌の良い時の近ちゃんはよく喋った。

「今日はおでん擬きのものを作ったので食べてみる?」

そんな日はサービスも良かったし演歌の話を早朝まで聞かされた。

私は中村一好に

「あなたは歌を知らなさ過ぎる」

と言われたこともあって、この新宿二丁目の近ちゃんで演歌漬けの日々を過ごした。

あまり好きではなかった演歌だったが、歌が持つ社会への影響力、奥の深さ、五分足らずのドラマの説得力など徐々に演歌に魅かれていった。

私がこの店に通い始めた頃、小谷夏作詞(久世光彦さんのペンネーム)の『矢車の花』だと記憶しているが、この歌を聴き、詞の繊細な表現に衝撃を受けた。この時、言葉で絵画を描くことが出来ることを知った。

暫くしてわかったが、近ちゃんが立って調理している位置から手を伸ばせば届くところにレコードプレイヤーが設置されていた。

彼は歌が一曲終わる度にエプロンで手を拭きながら忙しく背中の棚からドーナツ盤をピックアップしては、かけ替えていた。

彼にはこの山積みされた裸のレコードのどの山にどの歌があるか大よそ見当がついていた。

私がリクエストするとドーナツ盤の山を鷲掴みにし盤の中心の穴に指を差し込むと、片方の手の指で一枚一枚レコードのレーベルを見てリクエスト曲を探し出し、プレイヤーに運び針を落としていた。この間、僅か一、二分の早業だった。

近ちゃんは客の顔の表情を見てその人の心情を見事に読み取る技を持っていた。

今日は嫌なことがあったのか…一日楽しかったのか…悲しいことがあったみたいだな…それぞれに相応しい歌を然り気なく流す。

私も時に辛いことがあり過ぎて深夜彼の店に飛び込むと、慰めは無く逆に暗めの歌をあれこれ見繕って然り気なくかけてくれた。

「近ちゃん、その曲止めて!今日はそんな心境じゃないよ」

「あんた勘違いしないで!私が聴きたいからかけてるのよ!嫌なら帰って!」

「わかった!」

と、私はいつも納得していた。そんな朝帰りの朝は、自分一人が苦労してるんじゃないんだ!よし頑張ろう!とやる気が湧いていた。

近ちゃんは歌で人の心の病を治す名医だった。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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