「門倉有希への未練」  流浪のサラリーマン時代 本社編⑬【第59回】

2019.6.3

門倉有希への未練

私は門倉有希の歌に魅せられていた。あの哀愁を帯びた声が大好きだった。

平成四年、私はコロムビアを退社した後、彼女と仕事をすることになった。

独立したばかりの私は先行きの不安もあり有希に一緒に頑張ろうと呼びかけ続けたが、彼女は仕事のスケジュールに穴をあけ男と姿をくらまし、事件になった。

当時の彼女はプロ歌手としての自覚に問題があった。私は断腸の思いで福島の実家に彼女を帰したが、なかなか門倉有希への未練を断ち切れずにいた。

一度人生の歯車が狂うと暫くは何をやってもうまく行かず、私は気紛れに新宿二丁目の酒場“近藤”に足繁く通っていた。

この店の近ちゃんは行く度に私の気持ちを逆撫でするように門倉有希のレコードをかけまくった。『鴎』『どん底』『ひまわり』『どうせ東京の片隅に』…これでもか!これでもか!と有希の歌が私の心に語りかけてくる。今更聴いて何が変わるのか…。

「近ちゃん!もう聴きたくない!」

「嫌なら帰って!」

いつもの調子で彼は言い返してくる。

私にどうしろと言うのか。門倉有希は私がコロムビア時代、新人オーディションで審査員全員の反対を押し切って採用したんだったよな…。まだ十八歳の高校生だったが…。歌はあまりうまくなかったが、無茶苦茶大きくハスキーな声を出し、弾けていたよな…。そんな私の思い出までも近ちゃんには読まれていた。

私は来る日も来る日も彼の店で有希の歌を聴かされた。芸能界は厳しいところだ。一度事件を起こし退めたタレントのメジャー復帰など決して認められない。

わかっていたが、毎夜新宿二丁目で有希の歌を聴いていると、もう一度歌わせてやりたいと云う思いが日増しに強くなって行った。許されるならメジャー復帰でなくてもいい。街の片隅でマイナーな活動でもいい。彼女には歌しかない。小さくても歌う幸せを自分の手で掴んでほしい。

私は二度と会うこともないと決めていた門倉有希に会うため、福島県須賀川市の彼女の実家を訪ねた。

その後関係者の協力を得て有希は復帰することができた。そして『ノラ』のヒットで新しい一歩を踏み出した。

これまで二丁目の近ちゃんには様々な教えを受けて来たが

「有希の歌がそんなに好きなら簡単に諦めちゃだめよ」

この件でも近ちゃんの粘りに私は負けた。

彼はよく新宿のコタニでレコードを買っていた。

「今日買ってきた新曲いいよ。これ売れるね」

と、新人の女の子の歌を聴かされた。

「この子のどこがいいの?」

「この子にこんな歌い方が出来るとは驚きよ。聴いて聴いて」

と言って何回も同じフレーズを繰り返し聴かされた。

「近ちゃん!たったこれだけ?」

「そうよ!これだけで充分よ。ここだけで千円の価値はあるね」

彼は私に悔しかったら作ってみたら…と言って鼻を擦り上げた。

私達制作マンは昔から三分間のドラマをどう作り上げお客に感動を与えるか日々苦労して来たが、実際に商品が売れる要素はこんな所にもあったのか。目から鱗が落ちた。

言葉のひとつ、メロディのワンフレーズたりとも疎かには出来ないと痛感させられた。

その頃、音楽業界ではアナログからデジタルへと音は進化し、十年経ってここ新宿二丁目の近ちゃんの店にも変化が現れた。

長年手に馴染んだドーナツ盤は市場から姿を消しCDシングルに移行したが、その変化に近ちゃんはついて行けず、段々元気を失くしていった。

私はそんな彼を見兼ねて自社のデンオンブランドのCDセットをプレゼントした。彼は喜んで一時元気を取戻し、不慣れな手付きでCDをかけて聴いていたが、かつてのようにCD盤は裸にして積み上げられないし、ドーナツ盤みたいに掴む穴が無い。扱いに困った彼は昔のような接客テンポを取り戻せないまま段々歌そのものから遠ざかって行った。

ところがそんな落ち込んでいた近ちゃんに新しい恋人が出来、彼は急に明るく元気になった。

恋人は神戸に住んで居た。週末になると五十男の近ちゃんがそわそわする。

「彼女の写真見せて!」

と、頼んでも

「見せなーい」

と言って照れていたが、私は一度だけ見たことがあった。ジャニーズ系の美少年で子供のように若かった。

この恋人に会うため彼は週末を利用して頻繁に神戸に行っていたが彼の幸せな日々は長く続かなかった。

一九九五年一月、神戸を襲った阪神淡路大震災で近ちゃんの大切な恋人は犠牲になって死んだ。

ショックを受け、すっかり憔悴した彼は恋人の後を追い自ら命を絶った。

茹だるような夏の暑い日、身寄りの無い近ちゃんの葬儀を都はるみ、中村一好、杉本真人などと二丁目のお寺を借りて行った。

私にとって新宿二丁目は演歌の修行の街だった。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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