「膵臓手術に怯え逃げ出す」  流浪のサラリーマン時代 本社編⑭【第60回】

2019.6.4

膵臓手術に怯え逃げ出す

昨年の私の誕生日に嫁を連れて白石蔵王に行った。

「これから行く温泉場はお前も覚えていると思うが三十年以上前、俺が医者に余命三ヶ月と宣告され怖くなって逃げて来た湯治場だ」

「あの時、ここに居たの!あの頃のあんたは家には帰って来ないし、人の話では夜の酒場を夜通しウロウロしていて、まるで都会のドブネズミのようだと聞いていたから医者に宣告されても当然だと覚悟したよ」

「おい!誰がそんなこと言った?ドブネズミはひどいよ…。しかし言えてるよな。夜になるとドブから出て、街の残飯を漁る…。確かに似てる。俺は残飯の代わりに朝方まで演歌を漁ってた時期があったよな」

そんな会話を嫁としているうちにタクシーは雪を冠った蔵王の山並みが間近に望める鎌先温泉に着いた。

あれは昭和五十七年の出来事だった。私は朝の出社時に先ず医務室に立ち寄り、定番の錠剤を二錠飲む。これが習慣になっていた。

その日は運悪く、東大病院から派遣された医者が医務室に居た。

「顔色が悪いですね。今日は予約が一件も無いので丁度いい。診ましょう」

「結構です。二日酔いですからこの錠剤で充分です」

逃げ腰で断ったが、ついに捕まって診察を受けた。

「これはひどい。すぐ精密検査をやりましょう」

なかば強制連行のように護国寺にある東大病院の分院に連れて行かれ、精密検査を受けた結果、膵臓に問題があり、即入院即手術をしないと三ヶ月もたないと言われた。

先生の説明では膵臓の手術は難しく、背中を切開して行うことになると言われたが、私自身日常生活に支障がある訳でもなく、手術と言われてもピンとこなかった。只、背中の切開の説明に怯えた。怖かった。

入院手続きの説明を受け、必要書類を渡された時には自業自得と諦め、この先生に命を預けようと覚悟した。

一方仕事の方は演歌制作部の業績は倍々で伸びていた。完全に軌道に乗っていて、私が長期入院で留守にしても仕事には支障はなかった。

「私は急に護国寺の東大病院に入院することになった。長期になると思うので留守中はよろしく頼む」

私の突然の申し出に仲間たちは驚いていたが、不摂生が祟ったと思ったのか戒めとも取れる発言が出た。

「護国寺の分院は重症の患者が多く、入院した人の生還率は五十パーセントと聞いていますよ。大丈夫ですかね」

ドーッと笑いが起きたが私は笑えなかった。

当時演歌の制作に四人の東大OBが居たので冗談とは思えなかった。

背中の切開手術に怯えていた私にとってこの一言は決定的な判断をさせた。

恐い!手術を止めて何処か遠くへ逃げよう。

翌日、うちの嫁が入院用に準備していたボストンバックをそのままぶら下げ、開通して間もない東北新幹線に飛び乗って北へ向かった。

なぜ白石蔵王を下車駅に選んだかはっきりした理由は無かったが、蔵王と云う地名から連想してきっと良い温泉宿があると思っただけだった。

真新しい駅舎は夕方の時間にもかかわらず、ひっそりとしていた。

私は改札を出たところにあった観光案内所で今日から逗留する湯宿を探してもらった。

「安くて鄙びた温泉宿がいいんですが…」

「この辺りはどこも鄙びていますよ」

そう言って、案内所の人は駅から最も近い鎌先温泉の木村屋旅館を紹介してくれた。

タクシーで二十分ほどのところにあった。

車は白石の町を抜けると畑の中の道を蔵王へ向かって走った。

ここまで来たらもう誰も追っかけて来ないだろう。少し時間をかけてゆっくり考えよう…と思ったら急に気持ちが落ち着いて来た。

秋の収穫を終えた晩秋の鎌先温泉は湯治の客で賑わっていた。

タクシーを降りると目の前に木造の四、五階建ての大きな旅館があったが木村屋はその隣にあった。山の斜面にへばりつくように建っていた。

私は湯治客で賑わう本館ではなく、小屋と言っていいほどの離れの部屋に案内された。コタツがひとつあるだけの狭い和室だった。

早速ひと風呂浴びに行った。裏山を削って作った洞窟風呂の岩肌には大きな天狗のお面が飾ってあり、混浴でにごり湯のかけ流しの大きな湯船がひとつだけあった。

多くの湯治客は自炊だったが、私は賄をお願いしていた。

この宿に逗留して二日目。生涯忘れられない感動の場面に出逢った。

夕食前のひと風呂とお思い、湯船の入口の引き戸を開けた瞬間、

〽くもりガラスを

手で拭いて

あなた明日が

見えますか

洞窟効果でエコーの効いた『さざんかの宿』の男性合唱が飛び出して来た。

発売してまだ日が浅いこの歌が、こんな田舎でもう歌われている。

その時、私は感涙に重なって、仲間の大木舜の顔が見えた。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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