「湯治場で聴いた『さざんかの宿』」  流浪のサラリーマン時代 本社編⑮【第61回】

2019.6.5

湯治場で聴いた『さざんかの宿』

余命三ヶ月の宣告から逃れ、蔵王の麓、鎌先温泉で聴いた男性合唱の『さざんかの宿』は忘れられない一曲になった。

今でも当時のことをよく覚えている。湯気で中の様子はよく見えなかったが、地元の青年らしい四、五人が頭に鉢巻をして酒を片手に歌っていた。

(舜ちゃん、聴こえるか!良かったな…やったな…)

私にとっては大川栄策の『さざんかの宿』と言うより、大木舜の『さざんかの宿』だった。

私は下着のまま旅館の売店に行き、そこに並んでいた〝ワンカップ大関〟をあるだけビニール袋に入れて貰い、急ぎ湯船に引き返した。

「盛りあがってますね。一杯やりませんか?」

買ってきたワンカップ大関を配った。

「いいのかい?」

青年たちは不思議そうな顔をして受け取ってくれた。

「今歌っていた歌、いい歌だね」

「いい歌だろう?『さざんかの宿』という新しい歌だけど、これから流行るよ」

(舜ちゃん、聴いたか…。流行るって言ってるよ)

この作品が生まれるまでに紆余曲折があった。先ず私が大木舜の企画書にケチをつけた。

テーマになっている不倫が当時流行歌としてお客の理解を得られるとは思っていなかった。

〽くもりガラスを

手で拭いて

あなた明日が

見えますか

吉岡先生の凄さを感じさせる詞だが、わかりにくい。

「舜ちゃん、ガラスを拭いているのは誰なんだ?この歌の主人公はいったい誰なのか…」

「ガラスを拭いているのは人夫(ひとおっと)で、明日が見えますか?と尋ねているのが人妻ですよ。相互不倫ですよ。主人公は人妻、女性です」

「だけどどうして男がガラスを拭くの?」

「男は気が小さくて一戦交わった後、慌てている様子だと吉岡さんは言ってます。いざとなると女性は強い。これからは女性の時代が来ると作家は思っているんです」

「だけど舜ちゃん、わかりにくい詞だな。もう一度吉岡さんに言って書き直してはどうか…」

「いやです!僕はこれで行きます」

「どうしてもか!」

「ハイ!どうしても!」

日頃穏やかな彼の目が戦に挑む目に変っていた。

この目だ!この目が全てを語っている。彼は燃えていた。不倫が…詞の難しさが…そんなものはもう不要に思えた。

私は彼のやる気に賭けた。新譜の発売を決める編成会議でも出席者の評価は低く、イニシャル数が大川栄策作品の中で最悪の四千枚程度になった。

「営業さん、四千枚はないやろ!」

当時の販売課長の西野さん(後のクラウン、徳間の会長)は言った。

「そんなものですよ」

「そんなものとは何だ!失礼だろう!弱腰営業の意見や販売見込など聞く必要ない。我々で売る!」

私は啖呵を切った。立場が変れば、言うことも変わるものだ。私も販売課長時代、当時の制作、宣伝本部長に全く同じ事をよく言われていたが、逆の立場になった今は恥ずかしくもなく、平気で同じことを言っている。

だが全く効果は無く、最小の出荷数でスタートした。

昭和五十七年八月に『さざんかの宿』は発売されたが四千枚と云う数字は全国の販売店の数より少なく、一枚仕入れて売れても店員さんには売れた実感はない。要は目立たない。

そんな〝さざんかの宿チーム〟が苦しんでいる時に運送大手の佐川急便会長から人を介して十万枚の買い取りの申し出があった。喉から手が出るほどありがたい話だったが私は断った。

佐川会長からの買い取りの話はこれが初めてではなかった。

前作『あなたに生きる』の時もやはり、人を介して同じ話があり私達は狂喜した。

その時は大川栄策事務所の社長で実兄の荒巻さんと私と大木ディレクターの三人で、急ぎ京都の会長宅にご挨拶と御礼に伺った。

南禅寺にある会長の自宅は広大な敷地に見事な和風造りの豪邸が京の町並に調和した住いだった。

案内された座敷から見える広大な日本庭園には滝があり、大きな池にはきれいな緋鯉が泳いでいたが、それ以上に驚いたのは鶴のつがいが庭に放し飼いされていた。

そんな庭を眺めながら酒や夕食を頂いた。

「私は大川栄策が大好きだ。後援会の会長をやってもいいが、どうだろう?」

と、佐川会長から申し出があり、事務所社長である大川栄策のお兄ちゃんは是非よろしくと言って、頭を下げた。

そして帰り際に会長から箸の袋の裏に商品の届け先と枚数が書かれたリストと全国の支社の住所表を手渡された。

「東京に帰ったらすぐ送ってや」

大川栄策のお兄ちゃんは大喜びしていたが、私と大木は悩んだ。

十万枚もの商品をこんなに簡単に買って貰ってもよいものか。会長はお得意さんに配ると言っていたが、本当にそうなのか?

私は帰京後すぐ、佐川急便の北海道支社に電話を入れ真意を質した。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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