「大量買取りを拒否、苦難の道を選ぶ」  流浪のサラリーマン時代 本社編⑯【第62回】

2019.6.6

大量買取りを拒否、苦難の道を選ぶ

私がまだ大阪支店で試用員として働いていた頃、本社で受けた個人研修で、一枚のレコードがお客様に届くまでいかに多くの人の思いが込められているか学んだ。

私自身、工場、商品倉庫、営業所、制作部、宣伝部を体験し、その思いは益々強くなっていた。

先日佐川会長に手渡された『あなたに生きる』の十万枚の買取り割り振りリストをもとに、北海道支社に電話をかけた。

「お届けさせて頂くレコードをどのようにお使いになるのですか?」

担当者に尋ねると、

「うちの会長の指示ですから送ってください。どう使うかはあなたには関係ないでしょ!暫く倉庫に積んどきますよ」

と馴れた対応だった。

私は研修で学んだ〝一枚のレコードが出来るまで〟が咄嗟に頭を過った。

「わかりました。手数をかけて申し訳ありませんが、商品はお届けしませんが受け取ったことにして下さい」

「それでいいんですか?会長にバレたらあなたの責任ですよ。本当にいいですね」

と念押しされた。その時点で大川栄策の『あなたに生きる』の十万枚買取りの話は消えた。

佐川会長の厚意はありがたかったが、誰も聴いてくれないレコードを私は絶対送れなかった。

大川事務所の社長は私の判断に怒ったが私は頑として拒否した。

それと全く同じ話を今度は『さざんかの宿』で持ちかけられた。

苦戦続きの〝さざんかの宿チーム〟にとって十万枚買取りはものすごくありがたかったが、私の気持ちは変わらなかった。

前回の玉虫色の断り方ではなく、佐川会長に会ってはっきりお断りすべきと考え、宣伝用のサンプル盤二十枚を持って、京都の佐川会長を訪ねた。

会長は私に会うなり、

「今度の歌、エー歌やな…関西の有線放送に樽酒でも配って、いっぱいかけてもらうようにするわ。後援会の名前で届けてもエーやろ!」

最初からテンションが高く、買取り十万枚を断る切っ掛けがなかなか掴めなかった。

「会長!十万枚のお買上げの話ですが…」

私が前回、会長に内緒で買取りを断っていたことを知らず会長は

「それなぁ!前と同じ割り振りでやっといて!」

「違うんです。今回は…」

「十万で足りんかったら倍でもエーよ」

「会長!ご厚意はありがたいのですが、今度の作品は私達コロムビアが一枚、一枚売ってヒットさせたいと思っています」

「どういうこっちゃ!」

「今日は私達が宣伝用に使っているサンプル盤を二十枚持って来ました。これを使って知人で演歌の好きな人に宣伝して下さい」

やっと言えた。持参したサンプル盤を差し出したが会長は激怒した。

「あんたな!人の気持ちをそんな返し型ですますんか?固い事言ってると大事な友達を失くすわ。勝手にしいな!」

怒鳴られ帰された。それ以降、佐川会長とは疎遠になったが仕方ないと思った。

公私に四面楚歌の私だったがそんな時、鎌先温泉の湯船で聴いた『さざんかの宿』に勇気を貰った。

入院手術から逃亡中の私は忙しくなって来た。地味な手法だが、店頭の品切れを出さないことだと考え、宿の公衆電話を使い、川崎工場と連絡を取った。

「稼働していないプレス台で『さざんかの宿』をプレスしてくれないか?在庫しておきたい」

完全に社内ルールに違反しているが、日頃制作部に届けられるお中元、お歳暮など届いたもののお裾分けが効いているのか協力してくれた。

私の場合、工場にも商品部にも営業の出先にもかつて一緒に働いた仲間がいた。いざと云う時の私の財産だった。

膵臓の病で余命三ヶ月と医者に宣告されたことなどすっかり忘れ、『さざんかの宿』の販促に夢中になっていた。

病院からの入院催促も来なくなったので私は東京に帰った。

その後、膵臓は毎年検査の度に引っ掛かるがダラダラと今も頑張ってくれている。

『さざんかの宿』は舜ちゃんの執念が花開き、ミリオンヒットになった。舜ちゃんのこのヒットを作曲の市川先生は我が子の事のように喜んでくれた。

あれから三十年以上が経ち、『さざんかの宿』を聞いた鎌先温泉の湯治場は今どうなっているのか懐かしくなり、嫁を連れて訪ねてみた。

湯場の佇まいは昔のままだったが、私が逃げ込んだ木村屋旅館は立派な五階建ての旅館に生まれ変わっていた。

新しくなった木村屋では屋上の展望大浴場とにごり湯の露天風呂に人気が集中しており、昔のままの天狗岩風呂は利用する人がほとんどいないと旅館の主は言っていた。

私は宿に着いて、思い出がいっぱい詰まった天狗岩風呂に入った。

前よりも小さくなったように思えたが、洞窟も岩肌の天狗のお面も昔のままだった。

私以外誰もいない湯船で久しぶりに大声で『さざんかの宿』を歌ってみた。

〽くもりガラスを

手で拭いて

あの日と同じようにエコーが効いて湯船に響いた。

この章終わり

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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