「昼の顔と夜の顔」  親友 益弘泰男さん編①【第63回】

2019.6.7

昼の顔と夜の顔

大阪ミナミの盛り場、三ッ寺筋に居酒屋〝小径〟はあった。年の頃六十前後のおばちゃんが一人で切り盛りしていた。

この店の常連客だった人に私はNHKの芸能部で何十年振りに再会した。

私が演歌制作のリーダーになり、恒例のNHKへの挨拶に行った際、

「昼のプレゼント」班にその人は居た。

「こちらはCPの丸田さんです」

と、コロムビアの担当者に紹介された。オヤ?この顔どこかで見たぞ。相手の丸田CPも私の顔を不思議そうに見ている。

「あの…大阪で…」

私が尋ねると

「ああやっぱり!ミナミの〝小径〟で!」

「NHKにお勤めの方でしたか!」

「コロムビアだったのか!」

居酒屋友達との東京での再会だった。

この丸田さんの元で「昼プレ」のディレクターをしていたのが益弘泰男さんだった。

その後、丸田さんの飲み会によく誘われ益弘さんとも親しくなって行った。

益弘さんはディレクターとして最後の番組に「都はるみ伊豆大島からの一週間生放送」を制作し、私も同行した。そこで夜の顔でなく放送現場で働く昼の顔の彼を見た。

常に視聴者を強く意識した仕事ぶりは同じ人物とは思えぬ迫力があった。

私は一週間、益弘さんに密着して、テレビ番組の制作に魅せられた。

その後、益弘さんは昼プレ班のデスクを経て、札幌放送局の制作責任者として異動した。

この札幌時代、よく二人ですすき野で遊んだ。この頃から私は彼を益さんと呼ぶようになった。

益さんはお酒はあまり飲めないが、歌は上手い。フランク永井ばりの甘い声で若い女の子のリクエストに応え、どや顔で歌っていた。よくモテていた。益さんが危ない!単身赴任の身軽さでは火傷すると思い、注意したこともあったが、意に介さず遊びは続き、ついに歌い過ぎが原因で喉から血を出して倒れた。

馬鹿馬鹿しいと思いつつ心配で見舞いに行った。

その後も益さんのすすき野放浪は続いたが、それ以上に仕事でメキメキ成果を上げていた。

そして三年間の札幌暮しを謳歌して東京に帰って来た。益さんには勢いがあった。

NHKクリエイティブの役員を経て、ついに泣く子も黙る芸能の部長になった。ここでも番組の改善に意欲的だった。

「我々は出来上ったタレントを借りて番組を作っているが、NHK自らの手で新人を育てたい」

と日頃から言っていた益さんは「新人歌謡コンテスト」と云う番組を立ち上げた。

優勝者にはご褒美としてその年の紅白歌合戦への出場資格が与えられる。

局内の反対もかなりあったが、彼は平気で強行した。度胸があった。

部長になった益さんと相変わらずのお付き合いが続いていた頃、私と益さんの事で怪文書が業界に出回った。

〝益弘と境は公共の電波を私物化している〟と云った内容でNHKの会長、コロムビアの社長はじめ各方面にこの怪文書はばら撒かれた。

「益さん、どうする?」

「俺は平気だよ。慌てるとかえって相手の思うツボだよ。放っとこう」

その後も怪文書は出たが私達は関知しなかった。

私は益さんと付き合ううちに自分でテレビ番組を企画制作したいと思うようになって行った。

平成四年、私はコロムビアを辞め、独立を機に益さんに頼んだ。

「番組作らせてよ」

「だめだめ、素人には無理だ」

「わかってる。話だけでも聞いてよ!演歌の業界では毎年沢山新人がデビューする。この子達が自信をつけ、飛躍するのがテレビ出演だ。特にNHKのカメラの前で歌う事で成長する。益さん!その機会を作ろうよ!」

「うーん…」

と首を傾げていたが益さんは決断した。

公開放送「BS歌謡最前線」がスタートした。

当時TBSの「いかすバンド天国(イカ天)」の制作に携わっていた宮下康仁氏を演歌の世界に引きづり込み構成演出をお願いした。NHKからはディレクターの高木氏と司会の千田氏が充てられた。舞台製作とバンドは都はるみの専属メンバーを中村一好が貸してくれた。

私のテレビ番組制作第一号はベテランのスタッフで固められた。

初体験の番組制作で苦労したが感動もあった。出番を待つ新人達が競ってトイレで、発声練習する姿に、この中から明日のスターが一人でも多く出てほしいと祈った。

放送後、恒例の反省会議があった。益弘部長は会議室に入って来るなり

「だめだ!これは番組ではない!誰も知らない歌手が誰も知らない新曲をしかも三コーラス歌っている。これが楽しいか?視聴者が楽しめるか?よく考えろ!」

部長に叱られたが出席者から反論はない。

私は反論した。

「部長!(いつもは益さん)歌は三コーラスで構成されています。一コーラスでは作家の思いは届きません」

「そんなもの送り手側の理屈で受け手側、即ち視聴者のことをもっと考えろ!見て楽しくなかったらテレビじゃない!」

益さんは席を立って出て行った。

今思うと、益さんの言う通りだ。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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