「周防社長が残した足跡」  周防社長と長山洋子編⑦【第71回・最終回】

2019.6.19

周防社長が残した足跡

「実は洋子の市原での十五周年コンサートの事を長良さんに事前に話してきました」

「ああそれは良かった。俺も気になっていた。長良さん、何か言っていたか?」

「それが…帰りの土産に長良さんから氷川きよしを頂いて来ました」

「何!本当か!地元は喜ぶぞ!長良さんに御礼を言っとく。良かった」

余計なことするなと社長の雷が落ちるのを覚悟していただけにホッとした。

そしてついにその日はやって来た。後は開演までの時間との戦いだ。

周防社長も落ち着かないのか食べ物の差し入れを沢山持って、まだ準備中の会場に現れた。

お手伝いをお願いしていた社長の同級生の女性陣から

「郁雄ちゃん!」

と声がかかり久しぶりの談笑を楽しみながら気を紛らわせていた。

開場時間には小雨も上がり、八割程度のお客で埋まった。

会場でお手伝いをお願いしていた社長の同級生の人達の働きぶりにも頭が下がった。

心配していたお客さんの誘導や接客はさすがに地元の顔見知りだけにスムーズに運んだ。

一方、洋子は前の晩眠れなかったのか会場入りした時、目が赤かった。

初めての夜の野外コンサートにあれこれ思うところが沢山あるはずだし、恩人周防社長のふる里での開催に責任を感じているのだろう。

「洋子、普段通りやればいい!野外のライブは面白いぞ!楽しんでやれ!」

洋子の性格がよくわかっていた私は普段通りを装って接するように心掛けたが、主役の洋子の心はここに在らず。小さな背中に真面目が張り付いていた。

午後六時、仕込まれた照明にスイッチが入るとここ有秋公園だけが宙に浮かび上がり、幻想的な空間を創った。

客席に置かれた篝火に火が灯ると同時に開演を知らせる花火が市原有秋公園の秋の夜空に高々と打ち上げられた。

地元の協力が結集したコンサートがいよいよ始まる。

「洋子!後は頼むぞ」

私は祈る気持ちで見守った。

一部で先輩歌手から

「洋子ちゃん、おめでとう」

とお祝いの言葉を頂くと、洋子の心が揺れ今にも泣き出しそうな表情になっていた。

そして二部の長山洋子の世界で泣き虫洋子の本領を発揮した。

歌はしっかり頑張っていたがトークになると

「私の大恩人周防社長のふる里で…(泣く)私が大好きな歌を歌い続けて来れたのは社長の…(泣く)」

(洋子!わかったから先に進め!)

指示を送っても気持ちは社長への感謝で埋め尽くされ、何の効果も無い。結果、涙、涙の演歌十五歳の洋子になった。

歌と花火の野外コンサートは市原の人々に満足して頂くことが出来た。そして怪我人も無くトラブルも無く無事終わった。

翌朝、雨はひどくなっていた。私は昨夜のコンサートで荒らされた公園の後始末が心配になって、早朝再び公園を訪ねた。

土砂降り雨の有秋公園に赤や黄色のレインコートが動いている。周防社長の同級生の人達が列を作ってゴミを拾っていた。私はこの光景に感動した。これが正に周防社長そのものだと思った。

社長は郁雄ちゃん時代をここで過ごし、世に出て多くを学び、それを糧に腹心の樋口常務と積み上げてきた数々の金字塔は日本の歌謡史に今も燦然と輝いている。

つい最近会った際

「社長!元気で長生きしてくださいよ」

と言う私に

「俺の寿命は樋口次第だ」

とポツリと呟いた。

 

この連載もやっと書き終えた。レコード特信の梶浦社長から依頼を受け、断り続けていたが、小西良太郎さんに背中を押され“恥っ書き”を始めて二年が過ぎた。

全く自信は無かったが書き終えてみて「あの日あの頃」の自分が充分書けていないことに気づいた。

私が曲がりなりにも演歌制作でここまでやって来られたその原動力、市川昭介、都はるみ、中村一好とのあの頃がすっぽり抜けている。決して忘れたわけではない。何回も原稿用紙を前にトライしたが、すぐ中村一好が出てきて感傷的になってしまう。彼なくしてあの日あの頃の私を語れない。

近いうちに宇部にある中村一好の墓参りを済ませ、改めてあの頃の自分史をまとめてみたい。

又、この連載で私が生きて来た証しが整理できた。無学で音楽音痴の私が今も生きていられるのは多くの人と出逢い、助けられて来たからだ。

〝転がる石に苔生さず〟よく働いて来た。使い古された言葉だが〝一生懸命〟が私の生きる頼りだったし好きだった。

最後になったが作詞家の友利歩未が二年間付き合ってくれた。ぐちゃぐちゃの私の手書き原稿をパソコンで整理してくれた。作家として最も大切なこの時を私に使ってくれた。助かった。感謝している。

そして拙い私の「あの日あの頃」をお読み頂いた皆様に心より感謝申し上げて終わりにしたい。ありがとうございました。

 

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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