【第7回】コロムビア制作部後期の頃⑦「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.3.25

美空ひばり 天国へ旅立つ

1988年6月24日、医師団の懸命の治療と親族、多くのファン、そして関係者の祈りも虚しく、天国の家族の元へ美空ひばりは旅立った。享年52。花の命はかくも短いものなのか…。
華やかなスポットライトの陰で、人間として、女性として、母親として、そして加藤家の主として懸命に生き、孤独と戦い続けた波乱の生涯だったと思う。
加藤和枝の夢と、美空ひばりの現実をあの小さな背中に背負って走り続けた52年の生涯だとも思った。
ここにひばりさん直筆の一篇の詩がある。紹介したい。

『昭和四十年十一月九日 深更(注:深夜の意味)』

  一ツ橋を渡った
  川面をながめて
  私の足が立ち止った
  子どもの頃は一人で
  来られなかった場所
  川の流れの美しさに
  ひかれて夢を見た
  この川の流れは
  砂をしずめ
  岩にぶつかり
  細い間をぬって
  広い大きな愛の海に
  たどりつくのかと…
  だが私の見た川は
  そうではなかった
  はげしい激流の渦と
  変わってしまった

  二ツ橋を渡った
  何となく用心深く
  ふと私の足元の
  小さなすき間を見た
  美しい景色を
  見るのも忘れて
  その穴を数え始めた
  少し歩くと
  大きな穴があった
  子供では体ごと
  落ちてしまう
  私は大人でよかった
  でも高い所は
  きらいだ
  その下を
  勇気をもって
  ながめると
  自分の
  立っていた場所の
  恐ろしさに
  足がすくんだ
  どうして
  大人になると
  こんな所を選んで
  やって来るの
  だろう…と

  今度
  橋を渡る時は
  美しいものを求めて
  歩こう 
  涙が
  こぼれそうに
  なっても 
  ふっと見あげた
  あの澄み切った 
  青空のように

この時弱冠27歳のひばりさんは、自分がこの世に生まれ歌うことを<RUBY CHAR=”運命”、”さだめ”>と悟り、夢に見ていた美しい川ではなく激流の大人たちの渦の中で生きる決意をしていたと私には思える詩だった。そして人の宿命を強く感じる詩でもあった。
愛の大海に流れ着く“川”に拘り続けたひばりさんはついに昭和の名曲『川の流れのように』を生み、その長年の思いを遂げたことになる。
今日も巷に『川の流れのように』は流れている。NHKが実施した昭和の歌を選ぶ1千万人のアンケートで見事1位に輝いたこの名曲を私達の心に残して雲雀は天高く舞い上がっていった。

その日、私は東京に居なかった。私の知人が所有する韓国済州島のホテルに音楽評論家の掛昇一先生を招待する旅に出掛けていた。当時、男社会で人気が高かった韓国への旅行である。
目的が多少不純で後ろめたさを感じていた私は、会社にも家族にも内緒にしていた。そのことは同伴の掛氏にも協力をお願いしていた。
東京から済州島へは羽田からソウルを経由する便が主流だったが、知人の旅行会社の社長は入国ビザのいらない名古屋からの直行便を勧めた。一日一便の航空チケットは入手困難だったが、知人の社長は頑張って往復手配してくれた。名古屋発午後2時25分の大韓航空便に乗るべく私達は昼頃には名古屋空港に到着していた。

早い時期に計画していた旅行ではあったが、入院中のひばりさんの病状も気になっていた。
順天堂大学病院へは息子の和也さん以外、男性のお見舞いは止められていた。
病状を知る手段として毎日のようにお付きの範ちゃんや石井ふく子先生と電話で連絡を取っていた。

私が旅行に出掛けるかどうか迷っていた頃、ひばりさんからカルティエの腕時計とお礼と記された柿の絵の栞が届いた。
日増しに加熱する報道に対処するために、和也さん共々私が頻繁に記者会見を行っていたことへの気遣いではないかと思い私はその場ですぐにひばりさんへ走り書きの手紙を書いた。
「私達のことより気強く病気に立ち向かってください。正坊地会長(当時のコロムビア会長)はじめ、全社員、ひばりさんの元気なお帰りをお待ちしています」
使いの人にその手紙を手渡すと、折り返しひばりさんから正坊地会長宛に速達で元気で必ず帰る旨の返事が来た。
私はこのやりとりを見てしばらくは大丈夫だと判断して1泊2日の旅行に出掛けた。
その日の名古屋は梅雨時の重く低い雲に覆われていたが、飛行には問題なく、気持ちは既に済州島に飛んでいた。
---つづく

 

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

関連キーワード

この特集の別の記事を読む