【第8回】コロムビア制作部後期の頃⑧「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.3.25

名古屋空港でのミステリー

名古屋空港の人混みの中で私と掛昇一先生は搭乗手続きを待った。
済州島行の大韓航空のカウンターに長い列が出来、手続きが始まった。乗客は順調に誘導されいよいよ私達の番が来た。
係員が私達のチケットをカウンター下にある機械で照合していたが訝しい顔で首を傾げている。
客の流れは私達のところで止まり、後方からざわめきが聞こえてきた。
「誠に申し訳ありませんが、お二人のご搭乗手続きに少々時間がかかります。後ろにお並びのお客様を先にお通ししたいのですが…」
私はピーンと来た。旅行会社の社長が無理して入手したお宝チケットは、やはり問題があったのか…と思い、言われるまま私達は最後尾にまわった。

だが再度の搭乗手続きでも処理できない。フライトの時間が刻々と迫ってきていた。私はイライラして声も段々大きくなり、掛先生も不愉快な顔で私の横に立っていた。
そうこうしていると係員が私達を大韓航空の事務所の応接室に案内した。そこで初めて搭乗手続きが出来ない理由を知った。
何と!私達のお宝チケットは前日にソウルのH&Tという会社のMr.LEEという人によってキャンセルされていた。
係員は記録された紙のロールを引出し説明した上で、通常この便は5席から10席はキャンセルが出るので安心してここで待つようにと言い、私達にコーヒーを勧めた。

待っている間に私は事務所の電話を借りて、このチケットを手配した旅行会社の社長に事の顛末を話したら
「そんな馬鹿な!」
と電話の向こうで社長は怒っていた。
結論の出ないまま飛行機は私達二人を残して済州島へ飛び立った。
私は大韓航空の事務所の責任者を呼び怒鳴った。
「なぜチケットをキャンセルしたソウルの会社と連絡を取らないのか!」
後の祭りと分かってはいたが、掛先生の手前もあり当り散らした。

当然責任者は私達のチケットを最初にチェックした際、ソウルに電話を入れ、Mr.LEEに確認を取ろうとしたが、知らされた電話番号の登録は無く、H&Tなる会社もソウルに存在しておらず対応のしようが無かった。又、悪いことにいつもなら出るはずのキャンセルがこの日に限って出なかったと責任者は平謝りするばかりだった。
大韓航空の担当者はお詫びに今夜は名古屋市内にホテルを用意し、翌日の便のファーストクラスに搭乗できるようにすると申し出たが私は断った。
二人にそんな暇もなかったが、それ以上にキツネに抓まれたようなチケットキャンセルが妙に心に引っかかっていた。

招待した立場として掛先生に申し訳なく、このまま東京に引き返す訳にもいかなかった。私は東京の旅行会社の社長に電話を掛け、名古屋近くの温泉の穴場を探すように頼んだ。彼は
「ご迷惑をかけました。これから私も名古屋に伺います」
と言った。
彼に何ひとつ落ち度はなかったが温泉プランを持って私と掛先生の居る名古屋にやって来た。
私は彼が持って来たいくつかの温泉場の中から北陸加賀温泉百万石の離れ宿「梅鉢亭」を選び、旅行会社の社長も入れて三人で早速タクシーで加賀へ向かった。

良い宿だった。当初の予定でその晩楽しむはずだった韓国旅行の代わりに、地元で評判の良い芸者を宿が三人手配してくれた。
その頃になるとお招きした掛先生にも笑顔が戻って来て私もホッとした。 酒を飲み、芸者と踊ったり、カラオケでデュエットを歌って楽しんだり、それはそれで盛り上がった。名古屋空港で起きた不可思議な出来事も忘れさせる北陸加賀温泉の楽しい夜になった。

時間も深夜近くになり、お開きにして私は自分の部屋に引き上げた。
一人になったら今日一日の疲れがドーッと出て来た。ひと風呂浴びてマッサージでも…と思い支度にかかった時、部屋の電話が鳴った。
「東京からです」
宿の女中の声にドキッとした。受話器からコロムビアの評論家担当の沢江女史の慌てた声が飛び込んできた。
「ひばりさんが亡くなりました。すぐテレビを見て下さい」
とだけ言って電話は切れた。瞬間、罰が当たったと悟った。不埒者の私への天罰だ。酔いがいっぺんに醒めた。
落ちつけ!落ちつけ!自分に言い聞かせた。平成元年6月24日深夜、加賀温泉で受けたひばりさんの訃報だった。

その後名古屋空港での謎のチケットキャンセル事件のことはファンクラブの間に広まった。ファンクラブ幹部の一人は
「チケットをキャンセルしたのはひばりさん自身じゃないの。絶対そうだと思うな…。ひばりさんが亡くなった後、青葉台の自宅でも季節外れの藤の花が咲いたり、綺麗な蝶が部屋に舞い込んで来たり奇妙なことが沢山あったよ」
と話してくれた。

だが私にとって、このキャンセル事件が無く予定通り行く先を誰にも知られず旅をしていたら…と考えただけでもゾッとする。携帯電話の無い時代のこの不思議な事件は私の人生に汚点を残さずに済んだ。
---つづく

 

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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