【第9回】コロムビア制作部後期の頃⑨「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.3.25

細い糸は繋がっていた

冷静になってみると、会社にも家族にも内緒にしていた旅行の行く先がどうしてバレたのか?
後日聞いた話ではひばりさんの訃報の外部への第一報は、福岡のRKB毎日放送に入り、そこからTBSに伝わった。
丁度その日はTBSラジオの深夜番組「歌うヘッドライト」にコロムビアで売出し中のマルシアがレギュラー出演している日だった。そこにコロムビア関係者が立ち会っていたが、他に力強い味方が居た。この番組のプロデューサーの新出昭男氏だ。私は彼とよく喧嘩したし、よく酒も飲んだ。業界では口が悪く相手構わず噛みつくので有名だったが、そんな彼を私は大好きだった。

新出氏は早速、当時横浜の瀬谷にあった私の自宅に電話を入れた。
だが、うちの嫁さんは主人はゴルフに出掛けていると答えるだけで私の行く先等他のことは何も知らず、要領を得なかった。
「それでよく女房が務まるな」
新出氏はうちの嫁さんにそう言ったらしい。嫁さんも新出さんに叱られたと後日話してくれた。
新出氏は番組に立ち会っているコロムビアの社員に私の机の上のスケジュール表をチェックして来るように命じた。幸いにもTBSとコロムビアは同じ赤坂の町内で簡単に往復できた。
私のスケジュール表には単に〝掛〟と記入してあるだけで普通の人には解らないが、業界通の彼はピーンと来たらしく、コロムビアの評論家担当の沢江女史を探し出し掛先生のご自宅に電話を入れさせ、そして加賀温泉百万石「梅鉢亭」に私が居ることを付きとめた。

あれだけ内緒にと掛先生にお願いをしていたが、名古屋空港でのトラブルに掛先生は不吉なものを感じ、行く先の変更を奥さんに連絡していた。約束違反だったが、助かった。本当に助かった。天罰は当たったが細い糸は繋がっていた。

早速「梅鉢亭」に居た私達三人は東京へ帰る支度を急いだ。
ここで名古屋空港でのトラブルのお詫びに東京から駆けつけ一緒に遊んだ旅行会社の社長が役に立った。彼は東京に一番早く帰れるルートを探した。空路では金沢の小松、大阪の伊丹、そして謎のトラブルがあった名古屋空港があったが、いずれのルートも羽田に午前十時頃に着く。残る手段として東海道新幹線があった。滋賀県の米原から朝一番早く出る〝こだま〟に乗ると東京駅には午前十時に着く。ひばりさんの自宅がある目黒区青葉台までの所要時間を考慮し私達は新幹線での帰京を決めた。

梅雨の雨はしとしとと降るものと思っていたが、六月二十四日の北陸地方は台風並みの暴風雨が吹き荒れていた。
タクシーは深夜の温泉街ではなかなか来ない。その上、悪天候の中、米原までの長距離になる。
暫く待ってやっとタクシーが来た。私と掛先生と二人で東京へ帰ることになり、旅行会社の社長には残って清算をお願いした。
暴風雨の吹き荒れる北陸路はタクシーのワイパーは利かず、ちょっと先も見え難かったうえに突風で車体が揺れた。隙間から吹き込むピューピューという音が泣き声に聴こえ、尚更気持ちを悲しくさせた。二人とも無口になった。
「家には電話したの?」
掛先生から声をかけられ
「そうだ!忘れていた」
慌てて途中、電話ボックスを探し、私は横浜の自宅に電話を入れたのだが誰も出ない。幾度掛けても呼び出し音の信号に反応は無かった。私は諦めてタクシーに戻り、車が米原に着くのを待つことにした。

私達が乗ったタクシーは何とか米原に辿り着いた。一番列車にも間に合った。駅の公衆電話から私は早速自宅に再度電話をしたがやはり通じない。
横浜の瀬谷にあった私の家は私鉄が開発した新興住宅地にあり、同じような家が並んでいた。我が家の真向かいは確か関口さんと言ったな。104で電話番号を調べて早朝に掛ける失礼は承知の上で電話した。
奥様が電話に出られたので私は事情を話し、我が家の様子を見てもらうことにした。快く引き受けて頂いたが、私は公衆電話のガチャガチャと硬貨の落ちる音にイライラして来た。
「お宅は留守ではありません。電気が明々と点いていますよ」
それを聞いてひと安心したが腹が立った。
「申し訳ありませんが五分後に電話をするので家内に出るように伝えて下さいませんか」
と頼んだ。

「馬鹿野郎!家に居るのならなぜ電話に出ないんだ!」
やっと連絡が取れた嫁さんに私は怒鳴った。
「馬鹿はそっちでしょ!今どこに居るのよ!」
嫁さんは嫁さんで家にいろんな人から電話が掛かってきても私がどこに居るのか分からず答えられない。相手に叱られるだけなので電話機に布団を掛けて呼び出し音が聞こえないようにしていたと言って怒っていた。
---つづく

 

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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