【ヒット歌謡曲の作詞家】名曲を生み出した4人の作詞家の経歴とエピソード

2021.7.29

音楽が好きな人のなかには、「忘れられない歌詞がある」という人も多いのではないでしょうか?時代を象徴するようなヒット曲には、人々の心を揺さぶる歌詞がつきものだといえるでしょう。素晴らしい歌詞は時代を超えて語り継がれますが、そのような言葉を生み出しているのが作詞家です。今回は、数々のヒット歌謡曲を生み出した4人の作詞家の経歴とエピソードについてご紹介します。

阿久悠

阿久悠は1937年に兵庫県の淡路島で生まれました。本名・深田公之、阿久悠の名は「悪友」が由来です。明治大学卒業後に広告代理店「宣弘社」に勤務し、番組の企画やCM制作などを担当。その後フリーとなり、放送作家を経てから作詞家、作家として活躍しました。手掛けた作詞曲は5000曲以上に及び、日本の歌謡界を代表する作詞家といわれています。テレビ番組「スター誕生!」でピンク・レディーなど多くのスターを発掘しました。

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作詞家になれたのはビートルズがいたから

阿久は、作詞家になれたのはビートルズのおかげだと語っています。ビートルズの出現によりエレキギターがブームとなり、それまでプロしか扱えなかったギターが普及。やがてグループサウンズが流行し、この作曲に参加するかたちでフリーの作詞家や作曲家が続々と参入しました。これは、才能あるソングライターたちがメジャーになるなど転換期になったといいます。阿久もグループサウンズを中心に仕事が増え、人気作詞家として時代の寵児に。阿久はビートルズの来日による変化を「日本の音楽のビッグバン」と呼んでいたそうです。

代表作品

狙いうち(山本リンダ)
勝手にしやがれ(沢田研二)
北の宿から(都はるみ)
UFO(ピンク・レディー)
津軽海峡・冬景色(石川さゆり)
舟唄(八代亜紀)
また逢う日まで(尾崎紀世彦)
学園天国(フィンガー5)
あの鐘を鳴らすのはあなた(和田アキ子)
もしもピアノが弾けたなら(西田敏行)
など

松本隆

松本隆は1949年に東京都港区青山に生まれました。慶應義塾大学商学部を中退後、細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂とともに「バレンタイン・ブルー(後の「はっぴいえんど」)」を結成。はっぴいえんどはシティポップの先駆的バンドとなり、松本の歌詞は熱狂的支持者を生むと同時に日本語ロック論争の発端となりました。解散後は作詞家兼音楽プロデューサー業を開始し、のちに作詞家としての活動に専念。筒美京平作曲の『木綿のハンカチーフ』の大ヒットにより作詞家として注目され、その後も多数のアイドル、アーティストに歌詞を提供しました。2020年には『松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト』が始動し、2021年7月には『松本隆作詞活動50周年トリビュートアルバム』も発売されました。

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なりゆきから「希望」の発信者へ

松本は細野に勧められて作詞を始めました。当時の松本は常に本を持ち歩き文学青年に見えたことから詞を書けるだろうと思われたようで、はっぴいえんどの解散と同時期に妻の妊娠がわかり、生活のためになりゆきで作詞家を目指すことに。作詞については、傷を舐め合うような詞は書かず、落ち込んでもどう立ち直るかという希望が基本的テーマなため、不幸で終わる詞はないとのこと。また、いつも綺麗な日本語で書きたいとも語っています。

代表作品

ルビーの指環(寺尾聡)
SWEET MEMORIES(松田聖子)
木綿のハンカチーフ(太田裕美)
ガラスの林檎(松田聖子)
探偵物語(薬師丸ひろ子)
スニーカーぶる〜す(近藤真彦)
ハイスクールララバイ(イモ欽トリオ)
魂を抱いてくれ(氷室京介)
硝子の少年(KinKi Kids)
など

星野哲郎

星野哲郎は1925年に山口県森野村(現・周防大島町)和佐に生まれました。官立清水高等商船学校(現在の東京海洋大学)を結核で休学しつつも卒業し、日魯漁業(現在のマルハニチロ)に入社後は遠洋漁業の乗組員に。しかし数年後、腎臓結核のため4年もの闘病生活を余儀なくされます。闘病中に作詞を学び、雑誌『平凡』への応募が入選を果たし作詞家としてデビュー。その後、日本コロムビアと専属契約を締結し、クラウンレコード(現・日本クラウン)創設に関わったのちフリー作家に。演歌を中心に約4800曲もの歌詞を手掛け、数々のヒット作を生み出しました。

独特の世界観をもつ「星野えん歌」

星野は「演歌の詩人」として「遠歌縁歌援歌」をつづりました。「縁歌」は人との出会いを歌ったもの、「遠歌」は遠くをしのぶ歌、「援歌」は人を励ます応援歌で、これらは「星野えん歌」と表現されています。「歌詞は出だしの2行で決まる」を信念としており、実体験を下地にした独特の世界観が特徴です。水前寺清子、都はるみ、北島三郎らデビュー前から関わった歌手も多く、水前寺の愛称「チータ」の名付け親でもあります。

代表作品

みだれ髪(美空ひばり)
函館の女(北島三郎)
兄弟仁義(北島三郎)
風雪ながれ旅(北島三郎)
なみだ船(北島三郎)
三百六十五歩のマーチ(水前寺清子)
兄弟船(鳥羽一郎)
アンコ椿は恋の花(都はるみ)
夫婦坂(都はるみ)
出世街道(畠山みどり)
など

なかにし礼

なかにし礼は1938年に満州国・牡丹江省牡丹江市(現在の中国黒竜江省)に生まれました。もともと北海道小樽市に在住していた両親は、渡満して酒造業で成功を収めていたそうです。8歳のとき小樽に戻り、中学からは東京都品川区大井町で育ちます。立教大学在学中より、元タカラジェンヌでシャンソン歌手の深緑夏代からの依頼をきっかけにシャンソン訳詞に着手。自身で作詞作曲した作品『涙と雨にぬれて』を石原プロに持ち込むとこれがヒットし、以降コンサートや舞台演出、映画出演、歌、作曲、翻訳、小説・随筆の執筆やラジオパーソナリティなど多岐にわたり活躍しました。

闘病のなかでヒット作を連発した

なかにしの転機は、最初の結婚で新婚旅行中に泊まったホテルでの出来事でした。偶然にも俳優・石原裕次郎と出会い、「外国の歌より日本の歌を書きなよ」と勧められたのが作詞家へのキッカケだったようです。しかし、作詞家として活動し始めた矢先に心筋梗塞になり、以降は心臓発作で何度も救急車で運ばれるなどしながらヒット作を生み出しました。闘病のなかで作ったユニークでしゃれた歌詞は、なかにし流の持ち味といわれています。

代表作品

北酒場(細川たかし)
石狩挽歌(北原ミレイ)
あなたならどうする(いしだあゆみ)
恋の奴隷(奥村チヨ)
京都ブルース(藤圭子)
哀愁のシンフォニー(キャンディーズ)
わが人生に悔いなし(石原裕次郎)
愛、とどきますか(和田アキ子)
まつり(北島三郎)
AMBITIOUS JAPAN!(TOKIO)
など

人々の心に残る珠玉の歌詞

さまざまなヒット曲を手掛けてきた稀代の作詞家たち。彼らの歌詞は今でもカラオケなどで歌い継がれており、人々の心に残り続けています。時代とともに流行歌は変わりますが、過去のヒット曲は色あせません。この機会に懐かしの歌に触れてみてはいかがでしょうか?

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