歌謡曲を作っている作曲家ってどんな人?名曲を手掛けた作曲家について詳しく知ろう

ピアノを弾いてる人
2022.9.8

日々さまざまな楽曲が誕生していますが、それらの作品には必ず作曲家・作詞家と呼ばれる縁の下の力持ちがいることを忘れてはいけません。特に演歌や歌謡界では作曲家や作詞家の力がとても重要で、名曲が生まれるまでにはさまざまなドラマがあります。
そこで今回は、歌謡曲を生み出している作曲家に焦点を当てご紹介します。

作曲家とは

ピアノと楽譜
作曲家とは、文字通りメロディーを作り出す専門的な職業のことを指します。

作曲のみを担当している人を意味しており、音楽プロデューサーから「どのような楽曲を求めているのか」「歌手はどのくらいの音域を発声できるのか」を伝えられ、メロディーを作成しなくてはなりません。

また、歌手の魅力を引き出すことも意識しなくてはならないので、音楽の理論や技法などの専門的な知識が必要になります。

日本を代表する作曲家

それでは日本の音楽を支えてきた代表的な作曲家についてご紹介していきましょう。

筒美京平(つつみきょうへい)

筒美京平は、昭和の音楽業界で数多くの名曲を残した作曲家・編曲家です。
1960年代後半のグループ・サウンズや歌謡曲、J-POPやアニメ主題歌など、幅広いジャンルで多くのヒット曲を生み出しました。

代表曲は以下のとおりです。

  1. ・ジュディ・オング「魅せられて」
  2. ・近藤真彦「ギンギラギンにさりげなく」
  3. ・松本伊代「センチメンタル・ジャーニー」
  4. ・C-C-B「Romanticが止まらない」
  5. ・少年隊「仮面舞踏会」
  6. ・中山美穂「ツイてるねノッてるね」

などなど、挙げればキリがないほど多数の名曲を世に送り出しています。聞いたことある方も多いのではないでしょうか。
また、筒美といえば盟友である橋本淳や松本隆といった、大物作詞家との共作が多いことで知られています。

筒美はあまり人前に出ることを好まず、あくまでもアーティストを支える「裏方」の存在にこだわっていました。そのため、匿名性が強くどのような人物だったのかはあまり知られていません。まさに職人気質のクリエイターであったようです。

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弦哲也(げんてつや)

弦哲也は、1976年から作曲家としてデビューをして以降、2500曲以上の楽曲を生み出した作曲家です。現在は、日本作曲家協会会長を務めています。

もともとは歌手として音楽業界に入りましたが、約3年間の歌手活動の後、ギタリスト・作曲家に転身。北島三郎の公演にギタリストとして帯同した際、作曲家としての才能を見出されたことがきっかけになったそうです。

1980年に作曲を手がけた川中美幸の「ふたり酒」がヒット。
その後、作曲家としての活動に専念し、1999年12月には日本レコード大賞吉田正賞を受賞するなど、大物作曲家としての地位を確立しました。

音楽活動を始めて現在で57年、作曲家デビューからは46年経ちますが、現在も活動を継続しています。特に演歌界では、若手やベテランを問わず楽曲を提供しており、交流関係の広さがうかがえますね。

三木たかし(みきたかし)

三木たかしは、22歳という若さで才能を開花させたベテラン作曲家です。

貧困家庭で生まれており、子供のころは紙で書いた鍵盤を弾いて遊んでいたそうです。
1967年、当時の売れっ子作詞家であるなかにし礼の推薦で、泉アキに「恋はハートで」を提供したことで作曲家デビューを果たしました。
1968年には、実の妹である黛ジュンに提供した「夕月」が異例の66万枚のヒットを記録し、オリコンウィークリーチャート2位を記録。
1969年には、森山良子に提供した「禁じられた恋」が8週連続オリコンチャート1位となる大ヒットとなりました。
他にも、日本テレビ系アニメ『それいけ!アンパンマン』にオープニングテーマ曲「アンパンマンのマーチ」とエンディングテーマ曲「勇気りんりん」を提供するなど、さまざまなジャンルの楽曲が大ヒット。

多くの実績が評価され、2004年から日本作曲家協会理事長に就任、また日本レコード大賞制定委員や事務局長も務めました。

服部良一(はっとりりょういち)

服部良一は、1936年から活動した作曲家・編曲家です。作詞家としての一面もあり、作詞家としては「村雨まさを」と いう名で活動していました。
音楽の感性を「ジャズ」を通して磨き上げ、和製ポップス史において重要な音楽家の一人であり、日本音楽の土台を作り上げた存在です。

「別れのブルース」「東京ブギウギ」「青い山脈」「銀座カンカン娘」などを生み出しており、いずれも国民的ヒット曲として時代を彩りました。作曲家としての印象が強いようですが、作詞家としての功績も輝かしいものがあります。

作品作りにとどまらず、古賀政男らとともに日本作曲家協会や日本レコード大賞の創設にも尽力したことで日本音楽を育てました。それらの功績が認められ、紫綬褒章や勲三等瑞宝章、作曲家としては古賀政男に次いで史上2人目となる国民栄誉賞を受章しています。

水森英夫(みずもりひでお)

水森英夫は、数多くの演歌歌手を育て、演歌界に大きな影響を与えた作曲家です。現在は日本作曲家協会常務理事も務めています。

門下生には、氷川きよし、森山愛子、山内惠介、音羽しのぶ、三丘翔太、青山新、三代目コロムビア・ローズ、黒川真一朗、小村美貴、松尾雄史、幸田薫ら、ベテランから若手まで多くの原石を磨き上げてきました。

水森が音楽業界に入るきっかけとなったのは、小学6年生で「テイチクレコード全国歌謡コンクール」で優勝したことです。その後1963年、「三井たかお」の名で「悲しきジンタ」にて歌手デビューを果たしています。他にも「若い瞳(め)」「口笛を吹いたら」などの曲をリリースし、歌手活動に励んでいたようです。

1971年、「三音(みね)たかお」という名前に変更し、「たった二年と二ヵ月で」をリリース。売れ行きは良くなかったものの曲が良かったため、芸名を「水森英夫」に改名し、テイチクレコードより再リリースしヒットしたそうです。
1977年には歌手を引退し、赤坂でスナックを経営しながら作曲活動に入りました。

代表曲は、1993年に天童よしみに提供した「酒きずな」です。大ヒットを記録したことから、第44回NHK紅白歌合戦での歌唱に至りました。

1995年、審査員をしていたNHK「BS歌謡塾あなたが一番」で氷川きよしをスカウト。2000年、「箱根八里の半次郎」でデビュー後も、「大井追っかけ音次郎」「きよしのズンドコ節」をはじめ数多くのヒット曲を作曲し、人気歌手に育てました。
また、2001年からは自身がラジオパーソナリティーを務める「水森英夫のチップイン歌謡曲」が放送開始。2021年6月には放送回数が1000回を超えるほどの長寿番組となりました。

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都倉俊一(とくらしゅんいち)

都倉俊一は作曲家として活動し、その他にも元日本音楽著作権協会(JASRAC)会長、元エスワン・カンパニー経営者などさまざまなシーンで活躍しています。現在は、第23代文化庁長官も務めているそうです。多才なご活躍ぶりですね。

都倉は大学2年生の時から作曲家としての活動を始め、中山千夏の「あなたの心に」で認知されるようになりました。
代表曲は、1970年代に阿久悠と共作した大ヒット曲、ピンク・レディーの「ペッパー警部」「UFO」「カルメン77」でしょう。
昭和歌謡を代表する多くの名曲を残し、その後はオーディション番組『スター誕生!』の審査員やプロデュース業に注力し、鈴木雄大、南野陽子、BaBeといった人気歌手を育てました。

吉田正(よしだただし)

吉田正は、ムード歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広く手掛けた国民的歌謡作曲家です。都会的で哀愁漂うメロディーは「都会調歌謡」と称されるほどでした。
第二次世界大戦後の日本歌謡史を先導する作曲家の一人であり、鶴田浩二、三浦洸一、フランク永井、松尾和子、橋幸夫、和田弘とマヒナスターズなど多くの歌手を育てました。

代表曲は、1962年橋幸夫&吉永小百合に提供した「いつでも夢を」 でしょう。
当楽曲は、第4回日本レコード大賞の大賞を受賞し、同賞では後に吉田の功績をたたえ『吉田正賞』が制定されました。

猪俣公章(いのまたこうしょう)

猪俣公章は、演歌・歌謡界に大きな影響を与えた作詞家・作曲家です。
1960年、古賀政男が設立したプロダクションにスタッフとして採用され、事実上の門下生として師事することとなります。

作曲家としての頭角を現した猪俣は、大学卒業後の1962年、ビクターレコードと契約。
その後、1964年に鈴木やすしに提供した「僕の手でよかったら」で作曲家デビューを果たしました。

代表曲は、1966年森進一のデビュー作として提供した「女のためいき」。
その後も森に提供した「港町ブルース」「おふくろさん」「冬の旅」などで多くの大ヒットを記録しました。
他にもテレサ・テンの「空港」や藤圭子「京都から博多まで」「女のブルース」、水原弘「君こそわが命」、五木ひろし「千曲川」など、数多くのヒット曲を生み出したことで知られています。

船村徹(ふなむらとおる)

船村徹は、第二次世界大戦後の歌謡界を代表する、作曲家の一人です。
作曲家、歌手、JASRAC名誉会長、日本作曲家協会最高顧問、横綱審議委員会委員などとして活躍しました。これまで数多くの楽曲を手掛けており、歌謡曲の作曲家としては初めての文化勲章を受章しています。

代表曲は、春日八郎に提供した「別れの一本杉」でしょう。
その後は、三橋美智也の「ご機嫌さんよ達者かね」「あの娘が泣いている波止場」などで連続ヒットを記録しました。
1956年には、青木光一に提供した「早く帰ってコ」が大ヒット。また、村田英雄が歌う「王将」は戦後初めてのミリオンセラーを記録しました。

愛弟子には、日本を代表する歌手を多く輩出しており、北島三郎・鳥羽一郎・島津伸男・三木たかし・大下八郎・ムーディー松島・香田晋・静太郎・天草二郎・走裕介・村木弾・森サカエ・森若里子がいます。

日本の音楽を支えた存在

楽譜
日本の代表的な音楽として定着している歌謡曲は、多くの作曲家の汗と涙の結晶といえます。現代の音楽にも影響を与えている先人たちの功績は多大なものだということが感じられるでしょう。
今後も、多くの名曲が誕生していくことに期待したいですね。

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